一個人:公式WEBサイト

新着記事

聖地熊野への入口を訪ねるー和歌山県海南市藤白

「蘇り」の力を持つという熊野。平安時代から多くの人々が「魂の再生」を信じ、大自然の中を祈りとともに聖地を目指して歩いた。国内外から参詣客を集めるが、実は聖域への入口とされる「熊野一の鳥居」があった和歌山県海南(かいなん)市の熊野古道は世界遺産に登録されておらず、あまり知られていない。参詣者を静かに待つ、名所旧跡を歩いた。


熊野三山への旅の始まりは和歌山県海南市にあり

上皇・法皇らは、鳥羽離宮内の城南宮で出立式を行い、船で鴨川〜桂川〜淀川を下って、最初の王子である窪津王子から熊野に向かった。街道の詳しい情報はこちらのサイトを参照:熊野古道 紀伊路 街道マップ

大和や京の都から山と海で隔てられた熊野。熊野までの道は、紀伊半島を西回りする紀伊路(きいじ)と東回りする伊勢路が有名だが、その道のりは峻険で難行苦行の道であった。簡単にはたどり着けないからこそ、熊野は聖域なのである。また、熊野は「黄泉の国」であるともされ、人々は生きながら魂が再生されると信じ、現世の罪を洗い流し極楽往生を遂げようと熊野を目指した。

参詣道が急速に整備されたのは平安・鎌倉時代の院政期。907年の宇多法皇から1281年の亀山上皇までの374年間に、のべ100回にわたる上皇・法皇による熊野御幸(ごこう)が行われた頃で、紀伊路から中辺路(なかへち)に至るのが主なルートだった。旅に要する期間は1ヶ月ほど。参詣道には熊野権現の御子神を祀った王子(おうじ)があちこちに設けられ、そこで祈り、心身を浄めながら、御一行は旅をした。

紀伊路において熊野の入口にあたるのが海南市藤白だ。海南市はJR線と阪和自動車道が通るアクセスの良い場所であり、海と山に囲まれた温暖な気候。「下津蔵出しみかん」や「紀州漆器(黒江塗り)」が名産品で、2023年には新しい道の駅「南海サクアス」も整備された。和歌山県内で今最も注目される街の一つだ。

黄金の三所権現が神仏習合の歴史を伝える

「末法の世に救済を」平安時代、人々は熊野を目指す

高速道路の出入口からほど近いと思えないほど荘厳な空気が漂う藤白神社。御神木の大楠に見守られながら参拝できる

JR海南駅から熊野街道を南へ約1.2㎞進んだ地に、藤白(ふじしろ)神社がある。社伝によれば、景行天皇5年に鎮座、奈良時代には聖武天皇や孝謙天皇の使者が代参したとも伝えられる。かつて藤白王子だった場所である。同神社の権禰宜(ごんねぎ)で学芸員資格をもつ在野の歴史研究家・中井万里子さんは、熊野信仰をこう説明する。

「平安時代以降、熊野信仰は貴族や武士、さらには庶民にも広まりました。信仰が始まった平安時代後期は、釈迦の死後2000年を経て真実の教えが失われ、人々が堕落するという末法思想の世。人々、特に為政者は救済を求め、頻繁に熊野を目指しました」

京の都から熊野本宮までは往復約750㎞。その長く険しい巡礼路に点在しているのが王子だ。称して熊野九十九王子。九十九は実数でなく数が多いという意味だが、実際に近い数はあったと言われている。王子は道標であるだけでなく、休憩と宿泊の場所であり、また熊野三山の神々を祀る祭祀の場としても重要な役割を果たしていた。

中でも格式の高い五体王子のひとつが藤白王子である。歴代上皇・法皇が必ず宿泊し、里神楽や相撲、白拍子の舞などが奉納されたと伝えられている。

「日本の信仰の源をさぐる」をテーマに熊野信仰の研究に取り組む中井さん

熊野信仰の重要拠点であった藤白王子の存在感が色濃く残る

中井さんは藤白神社のあり様について、神社よりも王子であったことの意味合いが強いと話す。

「熊野信仰の主な特徴は神仏習合の色が濃いこと。ここはかつて、藤白若一(にゃくいち)権現とも呼ばれていましたが、仏が人々を救済するために仮に神の姿をとって現れたという本地垂迹(ほんじすいじゃく)説のもと、熊野三山の権現を祀っているからです」

熊野三所権現本地仏坐像は権現堂に安置されている

権現堂に安置されている平安後期作の木造熊野三所権現本地仏坐像が、それである。阿弥陀如来は熊野本宮大社、薬師如来は熊野速玉大社、千手観音は熊野那智大社のそれぞれ主祭神に相当する。

「この神々は親子なので、祖霊信仰につながる家族の姿とも見られます。注目すべきは、3体がお座りになる台座、礼盤(らいばん)。蓮華ではなく礼盤に仏様がお座りになることは通常なく、熊野の神々を描く熊野曼荼羅(まんだら)に同じ様式が見られることから、この仏様は神様としての姿を現していることがわかります。ここに修験道(しゅげんどう)がもたらす修行と自然崇拝の要素も加わり、熊野信仰は、特異で重要な位置を占めるようになったのではないでしょうか」

藤白神社 
住所:和歌山県海南市藤白448

樹齢1000年の大楠は南方熊楠の名の由来にもなった

境内には古く参詣者に木陰を提供してきた大木のクスノキ群がある。中でもご神木の樹齢は1000年ほど。株元の子守の宮とも言われる楠神社では、熊野杼樟日尊(クマノクスビノミコト)が祀られている。その由縁から、当地域では、藤白の「藤」、熊野の「熊」、大楠の「楠」の3文字から名前をいただくと健康で長寿になると信じられていた。

和歌山市出身で、世界を駆けた博物学者、南方熊楠(みなかたくまぐす)の名の由来ともなっている。幼少期に体が弱かった熊楠は、ここから2文字を授かり、昭和天皇にご進講をするほどの学者へ成長した。

大楠の側には境内社の子守楠神社がある

全国の鈴木姓のルーツが海南に武家相当の格があった鈴木家

藤白神社の境内を東に歩くと、風雅な庭園と立派で真新しい屋敷を見ることができる。修理・復元され、2023年に一般公開された鈴木屋敷だ。屋敷の主人だった鈴木氏は平安時代に熊野から藤白に移り住み、1942年に122代目が病没するまで続いた。全国に約178万人いる鈴木姓の宗家だと言われている。

老朽化していた状態からきれいに修理・復元された鈴木屋敷。復元にあたって全国の鈴木さんから多くの寄付を集めた。今後は観光・文化交流拠点として活用される

藤白鈴木氏は、熊野御幸の宿を提供するなど、熊野三山への案内役を務めた。また全国に熊野信仰を広め、各地に3300社あるとされる熊野神社を建立した。熊野信仰の広がりとともに鈴木姓も全国に広がったと伝えられる。

屋敷は書院造の座敷や武士専用の玄関があることが特徴的で、鈴木氏は武家相当の格式があったとみられている。曲水泉(こくすいせん)式の池泉庭園は、荒れていた状態から美しくよみがえらせた。床の間の掛け軸には大黒天が描かれているが、興味深い言い伝えが残る。

美しく蘇った池泉庭園
『紀伊名所図会』に描かれた鈴木屋敷。縁側の先が庭である(国立国会図書館)

「鈴木家には紀州徳川家の殿様から下賜された大黒天があり、泥棒に入られるとその大黒天が大笑いして撃退したそうです。ずっと行方がわからなかったのですが、最近、藤白鈴木家にルーツのある方が、もともとここにあったものと掛け軸を寄贈してくださいました。この大黒天のことかもしれません」と中井さん。

藤白神社には全国から鈴木さんが参拝に訪れる。海南市は「鈴木姓発祥の地」をしており、東京圏に約75万人いるとされる鈴木姓を対象にした移住支援金の支給制度も整備。特定の姓の人を対象にした制度は珍しいので、読者に鈴木さんがいたら是非調べてみてほしい。

殿様からの下賜品と思われる大黒天の掛け軸
『紀伊国名所図会』では藤白王子一帯の様子も確認できる(国立国会図書館)

鈴木屋敷
住所:和歌山県海南市藤白
営業時間:10時~16時
定休日:月曜、火曜(祝日を除く)

山道に並ぶ無数の野仏、今なお受け継がれる民衆の信仰心に出会う

熊野一の鳥居と潔斎の場、祓戸王子が存在した街角

鈴木屋敷から東へ歩くと小栗街道(熊野古道)と近世の熊野街道が合流する三叉路がある。ここに熊野の聖域への入口という意味を持つ「熊野一の鳥居」が立っていたという。近世まで礎石が残っていた様子が江戸時代の『紀伊国名所図会』に描かれているが、1549年に損失し、現在は地名に鳥居の名が残るのみだ。

『紀伊続風土記』に存在が記される熊野一の鳥居。現在は跡地に石碑が設置されている

鳥居の存在から、紀伊路における熊野の入口はこの地点だったと考えられる。熊野詣の参詣者は、裏手の山の中腹にある祓戸(はらえど)王子にて、身を清める垢離(こり)を行ってから熊野に足を踏み入れ、藤白王子に参拝していた。

「祓戸王子という名から、ここで穢れを祓い身を清めたことがうかがえます。実は熊野古道にはもう一つ、熊野本宮大社の手前に祓戸王子があり、そこでも本宮大社に参拝する前の垢離をしたそうです。海では潮垢離(しおごり)、川では水垢離(みずごり)と言われますが、海南の祓戸王子では不明。ただ周辺の人は、熊野古道を海から見て上という意味で上道(うえんど)と呼びます。昔は海だったことを思えば、潮垢離だったのかもしれません」と中井さんは考察する。

熊野一の鳥居跡
住所:和歌山県海南市鳥居

四国八十八カ所霊場を模した圧巻数の野仏に見守られる山道

祓戸王子跡へ向かう山道は短い距離ながら、100体以上の石の野仏(のぼとけ)が無造作に並んでいる。よく見ると、先祖墓の他に、空海の灌頂(かんじょう)名である遍照金剛の文字、札所の番号を刻んだ石などが見られる。これらの野仏は、空海が修行をした四国八十八カ所霊場を模した江戸時代頃の石仏群と考えられている。

当時は、四国八十八カ所の各札所の砂を集め、本尊と砂を安置することで写し霊場とし、お遍路と同じご利益を得るお砂踏みという風習が盛んであったと言われる。山道自体は熊野古道ではない。ただ、熊野詣の道すがらにお遍路も組み入れるとは、民衆の心はなんとおおらかだろう。

祓戸王子跡へ向かう山道に沿って野仏が並ぶ。どれもきれいで、現在も近隣住民が手入れしていることがうかがえる

祓戸王子跡と山道
住所:和歌山県海南市鳥居257-1

けわしき藤白坂をよじ登り、平安期からの熊野詣を追体験する

涙を誘う悲劇の皇族、有間皇子最期の地

藤白神社から南へ200mほど行くと熊野古道・藤白坂の登り口がある。椿の木の下に、7世紀中頃の皇族である有間皇子(ありまのみこ)の墓碑と歌碑が立っている。斉明天皇の時代、有間皇子は皇位継承争いのなか謀反をそそのかされ、藤白坂で絞殺されたと『日本書紀』が伝える。わずか19歳だった。歌碑は有間皇子の辞世の句「家にあれば 笥(け)に盛る飯(いひ)を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る」(万葉集)を佐々木信綱が揮毫したものだ。

藤白坂で絞殺され19歳で生涯を閉じた有間皇子。藤白坂の登り口にある史跡がある

藤白神社の境内には有間皇子神社があり、毎年11月に地域の人々によって有間皇子まつりが開催されている。ここには、持統・文武天皇による白浜温泉への行幸の際、お伴の一人が有間皇子への追慕の気持ちを込めて詠んだ「藤白の み坂を越ゆと 白たへの わが衣手は ぬれにけるかも」の万葉歌碑がある。日本三古湯である白浜温泉(当時、牟婁(むろ)の湯)は有間皇子が称賛し、広めた地なのだ。

藤代神社の境内にある有間皇子神社

中井さんは「有間皇子の変は日本書紀に記され、万葉集には歌が残っています。政争に巻き込まれ年若く散った悲劇の皇子として特別視されていたことは、今に物語が伝えられていることからも明らかです。有間皇子処刑の地である藤白坂は、熊野詣が盛んになる以前から、人々にロマンを感じさせる場所として捉えられてきたように思います」と話す。

海南市の画家・雑賀紀光が描いた肖像画(藤白神社蔵)

有間皇子の墓の傍らには、小さな古い地蔵が佇む。傍には一丁と書かれた石柱。藤白坂は、ここから一丁(109m)を大まかな目安にして、十七まで丁石(ちょうせき)地蔵が案内してくれる。江戸時代中期に専念寺(海南市名高)の住職だった全長上人(ぜんちょうしょうにん)が、道中の安全を願って安置したものだ。年月とともに消失し、1981年の調査時には4体しか残っていなかったが、後に復元され、全17体がそろった。一丁目の地蔵は江戸時代のもので、地元では「椿の地蔵さん」と親しまれている。

有間皇子の史跡の近くにある丁石地蔵

有間皇子の史跡
住所:和歌山県海南市藤白


心臓破りの藤白坂の先には旅人の安全を見守る巨大地蔵

いよいよ紀伊路のハイライトと言われる藤白坂を丁石地蔵に見守られながら登る。急坂ゆえ、上皇に幾度も帯同した歌人・藤原定家は「熊野御幸記」で「よじ登る」と表現しているほどだ。最初は舗装された農道で始まるが、途中から岩や木の根がゴロゴロ。湿気も多く、油断すると足がとられる。途中から丁石地蔵を数える余裕もなくなってくるが、愛らしい顔を見て何とか息を整える。木々が開けると和歌山らしい蒼海が見晴らせたり、突如幻想的な竹林に囲まれたりと、非日常の自然と静寂を感じられる。最後の十七丁地蔵を見たときはうれしかったが、息が上がり声が出なかった。

麓から峠の上まで、古道沿いに17体の地蔵が祀られている

登りつめた藤白峠には、塔下王子社が合祀された地蔵峰寺がある。本堂には「峠の地蔵さん」と地元で親しまれる石造地蔵菩薩が安置される。戦前は国宝に指定されていたという石仏の大きさは3mあまりと巨大で、本体と光背を一石の和泉砂岩(いずみさがん)で彫り出している。

旅人を見守る高さ3mもの石仏

寺を管理するのは善福院(ぜんぷくいん)(海南市下津町)住職の市野善英さんだ。「鎌倉時代末期、1323年の開眼で、勧進僧の心静(しんじょう)が石工(いしく)の行経(ゆきつね)に作らせました。裏の刻銘は今も読み取れます。本堂は1513年頃の建立です。地蔵様が作られてから700年が経っていますが、状態がいいのはお堂で守られてきたからです。緻密な彫刻に適する巨大な和泉砂岩が使われていますが、運ぶのは大変だったでしょう。熊野詣の難所である藤白坂の安全を祈願する人々の信仰心の賜物です」と市野さん。

なめらかな曲線で描かれるふっくらとした像容は、旅人を見守る優しさを感じさせる。普段は拝観穴からお姿を拝むが、毎年4月24日の会式(えしき)で開帳される。

本尊が造られた1323年頃には本堂がなかったが、後に守るように建てられた。早い段階に建てられたので、石仏でありながら雨風で欠けることがなく残っている

地蔵峰寺
住所:和歌山県海南市下津町橘本1612

熊野古道随一の美景、御所の芝展望台で休息を

寺の右手を登ると、熊野御幸の際に上皇らが休息をとった御所(ごしょ)の芝に出る。目の前に広がるのは、和歌浦(わかのうら)、紀伊水道、淡路島、四国までが望める大パノラマだ。『紀伊国名所図会』の「熊野路第一の美景なり」という言葉も納得だ。海の遠い京から来た上皇は、南国の青い海と濃い緑をきっと感激の面持ちで眺めたのだろう。

和歌浦湾から淡路島、四国まで見渡すことができ、朝日夕日百選にも選ばれている景勝の地。かつては「熊野路第一の美景」と称された

昔ながらの熊野詣の趣を残す藤白坂とその周辺。歴代上皇、定家、さらに遡って有間皇子…、往来したいにしえ人の瞳に映った景色を見て歩く旅となった。

御所の芝
住所:海南市下津町橘本

【グルメ情報】古道歩きのお供にー「笹ふじ 早なれ寿司

鯖と甘酢生姜、酢飯をアセの葉で巻いて弱発酵させた和歌山の郷土料理「早なれ寿司」。店主の祖母の味を手作りで再現している。甘酢生姜と脂ののった鯖が上品な味わい。テイクアウト専門で、古道歩きのお弁当にもぴったり。2個入り400円~。

笹ふじ 早なれ寿司
住所:和歌山県海南市藤白394
電話番号:073-484-3324
営業時間:9:00~15:00(売り切れ次第終了)
定休日:火曜

【世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」登録20周年】

紀伊山地は、神話の時代から神々が鎮まる特別な地域と考えられていました。深い森林に覆われた山々を仏教では阿弥陀仏や観音菩薩の「浄土」に見立て、仏が持つような能力を習得するための修行の場としました。

古代の自然崇拝に根ざした神道、中国から伝来し我が国で独自の展開を見せた仏教、その両者が結びついた修験道など多様な信仰の形態を育んだ神仏の霊場である「熊野三山」「高野山」「吉野・大峯」は、都をはじめ各地から多くの参詣者の訪れる所となり、日本における宗教・文化の発展と交流に大きな影響を及ぼしました。

紀伊山地の3つの霊場とこれらを結ぶ参詣道、連綿と培われてきた独自の文化的景観は、世界でも類を見ない資産として評価され、2004年7月にユネスコ世界遺産に登録。本年で20周年を迎えました


取材・文◉万谷絵美、上芝舞子 撮影◉田中純子 協力◉和歌山県広報課

RANKING

DAILY
WEEKLY
MONTHLY
  1. 1
  2. 2
  3. 3
  1. 1
  2. 2
  3. 3
  1. 1
  2. 2
  3. 3

RECOMMEND

関連記事