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日常と非日常を棲み分けた大規模な縄文集落。子どもの命への賛歌が今なお息づく場所〜垣ノ島遺跡

 緑の草原が、どこまでも、どこまでも広がって、壮大な景色に息を呑む。
 垣ノ島遺跡は縄文時代早期から後期(約9,000年前から約3,000年前)にかけての長期間にわたって、縄文人たちが暮らしを営んできた場所だ。また、世界最古の漆製品が出土したことでよく知られている。

 広大な敷地内には竪穴住居跡や墓が数多く存在するが、たとえば海に近い側に人々が暮らす集落がつくられ、そこから少し離れた山側に向かうエリアに墓域が形成されている。広大な土地を日常と非日常を明確に区分けして、人々がなんらかの約束事のようなものを守りながら暮らしていた様子が想像できる。
 この遺跡では国内最大級規模の盛り土遺構が見つかっている。緑の広場のようなところには、一直線の土手のようなものがつくられ、長方形をかたちづくっている。その中に削り残されたマウンドがあり、ここから配石遺構や石棒など祭祀に使用したと思われる遺物が見つかったことから、ここに大規模な祭祀場があったのでは?と言われている。

『函館市縄文文化交流センター』で衝撃を受けた展示。

 遺跡の入り口に建つ『函館市縄文文化交流センター』を訪ねる。ここは垣ノ島遺跡をはじめ、南茅部の縄文遺跡群、函館市の縄文遺跡から出土した遺物を数多く展示している。お目当てはもちろん、北海道で唯一の国宝「中空土偶」(常設展示)に会うことだったけれど、もうひとつ、心打たれるものに出会った。

 人々を合葬らしい大きな土坑墓や周囲の墓から、17点もの足形付土版(あしがたつきどばん)がまとまって出土したそうだが、その土版がずらりと展示されていたのだ。
子供の足裏をまだ柔らかい土の板におしつけて型取りをしたもので、5本の指と、小さな小さな足形が胸を打つ。亡くなった子どもの足形なのか、誕生の記念に型取りをしたものなのか、諸説あるそうだが、墓域から見つかっていることもあるし、なぜか胸の奥にちくりと痛みを感じたのは、やはり亡くなった子どものものだからだろうか。

親の心情を映し出すような足形付き土版。縄文人たちの気持ちに触れた気がする。

 足形付き土版には穴が開けられていて、紐を通して親が常に身に付けていた、あるいは家の中で祭祀を行う場所に吊り下げてあったなど、これも諸説ある。親自身がその型を取ったのだろうか。命の塊のような生命力溢れる子どもは、縄文時代の宝だったろうし、親も集落の大人も愛情を注いでその命を育んだはずだ。幼くして亡くなった子どもがいれば、集落全体でその死を悼んだことだろう。
北海道の縄文世界で、また一つ、忘れがたいものに出会ってしまった。

忘れてはならないこのひと、北海道で唯一の国宝「中空土偶」にも会える。

人々が長きにわたって暮らした丘の上の美しい集落 〜大船遺跡〜

 大船川の左岸、標高40〜50mの河岸段丘の上に位置する大船遺跡は、緑が広がる丘にあって、再現された竪穴式住居がポツポツと建っている。丘からは海がどこまでも見渡せて、春になれば花々が咲き乱れ、きっと美しい風景が広がるだろう。

緑の丘からは海がよく見える。縄文時代と変わらぬ景色かもしれない。
楕円の住居跡が重なり合う。時代を超えてここで長く営みが続けられてきたことがわかる。
住居跡の一つ。かなり掘り下げてある。

 このあたりは、とても自然に恵まれた土地だったようだ。大船川には多くの魚が棲み、季節になるとサクラマスが遡上する。集落の周りは栗の木が自生し、貴重な食糧になったろうし、もちろん海からは豊富な魚介が獲れ、山では鹿を狩ることができたはずだ。さまざまな自然の恵みを享受しながら、縄文人たちは長きに渡って、この土地で暮らしを営んできた。

こちらの住居も地下に深く掘り込まれている。冬は暖かく、夏は涼しかったのだろうか。

 特徴的なのが住まいの造りだ。住居は楕円形や円形をしていて、非常に大型のものが多い。深さが2mに及ぶものもあり、ちょっとした地下室のようでもある。これだけの深さを掘るには、それだけの土木技術も必要だっただろう。
また、深く穴を掘れるということは、食糧の貯蔵庫としての機能もあったはず。大きな住居を建てる技術や貯蔵術の発達は、集落の人々に快適な暮らしをもたらした可能性が大きいと思う。食糧を潤沢に得て、しっかりと蓄え、快適に過ごせるのであれば、人々は同じ土地に何代も長く暮らし続けるはずだ。そこに「私たちの故郷」という意識が生まれてもふしぎではない。
 こうやって、縄文の人々は、自分たちの暮らしを強固なものにし、長く続く社会をつくっていったのだろう。

 遺跡を見学中、小雨がぱらぱらと降っていたが、空が明るくなってすぐに雨が上がった。すると集落の向こうに大きな虹がかかった。古代の人々もきっとこんな虹を見たはずだ。美しい虹は、海を横切るようにしばらく七色の光を放って、やがて消えて行った。現代人でさえ感動するこんな美しい景色を見れば、天への怖れと感謝が、縄文人の心にしっかりと宿るのはきっとたやすいことだったろう。

ムラとムラが協働で築造した?謎多き、巨大な墓域 〜キウス周堤墓群〜

 一歩、森の中に入ると古代の音が満ちみちていた。雨がしとしと降っていて、それが広葉樹の葉に当たって、さらさらと音が響いてくる。時折、風が吹くと、ざあっと木々の葉ずれの音が連綿と向こうまで続いていく。
木々の間を抜けていくとこんもり盛りあがった土塁の堤のようなものが見えてきた。堤はドーナツのようなサークル状になっていて、真ん中が窪んで平らになっている。そんな巨大なドーナツ状の高まりがいくつも見える。

 キウス周堤墓群。ここは約3200年前の縄文時代後期につくられた集団墓地群だ。キウスの語源である「キ・ウシ」はアイヌ語で、カヤが群生するところという意味があるそうだ。地面を丸く掘り、掘った土を周囲に土手状に積み上げ、真ん中のくぼみのところを墓域にする。周囲に堤があることから「周堤墓」と呼ばれている。窪みからは墓穴や石棒が見つかっている。

 キウス周堤墓群は、9基の周堤墓が現存している。北と南に群が分かれていて、北側に2基、南側に7基にあるが、その間に通路として使った道の跡が残されている。
 1号、2号、4号の3基は非常に大型で、外径が約70〜80m、堤の高さは高いところで4.7mにも及ぶ。そばに近寄るとその大きさがよくわかる。資料によると、このクラスの大きさになると、一人の人間が一日1㎡の土を積み上げると計算して、25人がかりで120日を超える工事期間が必要だという。1基でそれだけかかるのだから、何基も築造するとなるとかなりの大規模工事だろう。ひとつのムラだけでは難しく、ムラとムラが協力して、計画的に築造したのではないかとも考えられるそうだ。
また、巨大な周堤墓の存在は、他地域の人間に対して、この地域の力を見せつける効果もあったのだろう。いずれにしても、社会共同体の意識が芽生えつつあったのかもしれない。

 一個のムラで行っていた祭祀や行事、墓域づくりを、繋がりのあるムラとムラが共同で行う…。ここからやはり「故郷」という概念が生まれるような気がする。他の土地に開拓に行くものもあっただろう。その人にとっては、この共同体が「故郷」であり、その中心に、祖先たちが眠るキウス周堤墓群があったのではないだろうか。

 雨風がきつくなってきたので、周堤墓を後にすることにした。森の中を歩いていると、何か濃密な空気を感じて、縄文人たちが囁きかけてくるような気がする。まだずっとここにいたいような、このままいれば、すっと引き込まれていきそうな…不思議な気持ちで森から抜け出した。

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郡 麻江

こおり・まえ 古墳ライター。 時々、添乗員。京都在住。得意な伝統工芸関係の取材を中心に、「京都の人、モノ、コト」を主体とする仕事を続けながら、2018年、ライフワークと言えるテーマ「古墳」に出会う。同年、百舌鳥古市古墳群(2019年世界遺産登録)の古墳ガイドブック『ザ・古墳群 百舌鳥と古市89基』(140B)、『都心から行ける日帰り古墳 関東1都6県の古墳と古墳群102』(ワニブックス)、『巨大古墳の古代史』(共著・宝島社新書)、『中公ムック 日本百名墳』(中央公論新社)などを取材・執筆。古墳や古代遺跡をテーマに、各地の古墳の取材活動を続ける。その縁で、添乗員の資格を取得。古墳オタクとして、オン・オフともに全国の古墳や遺跡を巡っている。日本旅のペンクラブ会員。

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