読切

2021/11/21

伊東四朗さんの喜劇人生と、人生100年時代の生き方

伊東四朗さん特別インタビュー「100歳までにしたいこと」

伊東 四朗

●取材・文/内山賢一 ●撮影/永井浩

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 電線音頭、ニン!、おしんの父ちゃんに、伊東家の食卓、伊東四朗一座……。伊東四朗さんの芸能人生はもう60年も続いている。多岐にわたり、いまだ一線で活躍する伊東さんは、「人生100年時代」の今をどう過ごしているのだろうか。

昔は還暦が現役と隠居の節目だったけど、今は違うね

─現在、84歳である伊東四朗さんは100歳についてどのようなイメージを抱いているのだろうか。

 うーん、100歳か…フフフ。私はそこまでいかないと思っていますからね。自分が100歳になることを想像したこともないですね。82歳ということ自体が未知ですから。ここまで生きてきたのが想定外ですよ。

 しかし、世の中も変わったよね。昔は『船頭さん』って童謡で「村の渡しの船頭さんは今年六十のおじいさん」なんて歌詞がありましたからね。これって今の60歳の人が聞いたら怒っちゃうよね。昔は還暦というのが現役と隠居の節目だったんだろうね。

―伊東さんが還暦を迎えたのが20年以上前。隠居生活を送ることなく、今もテレビドラマやバラエティ番組の現場で第一線に立ち続けている。還暦をはるかに超えてなお、精力的に仕事を続けられる秘訣とは何だろうか。

 続ける秘訣ですか? そんなものがあればみんな知りたいですよ。この世界には公式なんてない。何をすればうまくいくのかなんて、まるでわからない。結局、人との出会いだと思うんですよ。私の場合、絶妙のタイミングで大事な人と会っているんですよ。ひょっとしてシナリオでもできているんじゃないかって思ったことはありますね。何か不思議なものを感じます。

―伊東さんが喜劇人の道を進むきっかけを作ったのは、ある人との出会いから。それは昭和30年代前半のこと。高校を卒業後、早稲田大学の生協で時給30円のアルバイトをしていた時だ。

 アルバイトしていたのは、就職試験にすべて落ちたからです。心配した学友の身内が重役を務める大手製薬会社を紹介してもらったんだけど、格好だけのはずだったその就職試験にも落ちちゃった。もう、恥ずかしいったらありゃしない。

 でも特に挫折感もなく、何とかなるだろうって、わりとお気楽に過ごしていたかな。それでアルバイトしながら、芝居が好きだったもんですからね、歌舞伎座や浅草、新宿、池袋などの小屋に通うようになったの。

―いつも同じ客席で観劇していたこともあり、伊東青年は「あいつ、また来ている」と舞台の関係者の間で有名になっていったという。そして、ある日…。

 いつものように観劇した帰り道。劇場を出るところのガラス窓が突然ガラッと開いて、演者と目が合ったんですよ。すると『よう、寄っていけ』と声を掛けられたのがきっかけ。

―目が合ったのは昭和期に活躍した喜劇役者の石井均(いしい・きん)氏(故人)。当時はコメディアンとして頭角を現し始めた頃で、若手の注目株だった。

 あの時に窓が開かなかったら、目が合わなかったら今の私はないね。ほんとに数秒の違いで人生が変わっていたと思う。声を掛けられたら、もう欣喜雀躍(きんきじゃくやく)でね。楽屋でいろんな話させてもらううちに、今度、石井均さんが一座を旗揚げするから、そっちにも遊びに来るかって言われてね。もちろん行かせてもらって。そしたら今度は(舞台に)出てみるかって。

―1958年、石井均氏を中心とする劇団「笑う仲間」が旗揚げされる。伊東さんは、ここで初舞台を踏む。21歳の時だ。

 セリフも何もなくてね。公衆便所からジッパーを上げながら出てきて、口笛吹いて去っていく。それだけだったんですけど。何だか知らないけど、楽しくてね。

―そんな時にアルバイトをしていた生協から正社員の話がくる。

 そこで人生について初めて悩んだんです。どうしようか、俺の人生ここで変わるぞって。それで悩んだ挙句に「口笛」の方をとっちゃった。

―こうして「笑う仲間」の研究生として加わり、役者人生の幕が開いた。その後、三波伸介氏、戸塚睦夫氏と組んだ〝てんぷくトリオ?で国民的人気者に。数多のドラマ、映画に役者として出演し、存在感を高めていく。

人との出会い、縁は本当に大事 色んな人に会えたことが財産

―自身の性格を保守的で、「人の先頭に立って何かをするタイプではない」と言う伊東さんに2004年、67歳の時、一座の座長就任という話が持ち上がる。仕掛け人は三宅裕司氏(劇団SET主宰)だった。

 とにかく人にくっついていけば何とかなるだろう。私はそういう性格なんですよ。ですから、後々ドラマで主役をやるとか、舞台で一座を持つようになるとは考えてもみなかった。自分の一座なんて、特にね。

 あれは三宅裕司さんから伊東四朗一座をつくりませんかって言われて、絶対やらないって拒否していたら、彼が妙なキャッチコピーを考えてきたんですよ。『伊東四朗一座旗揚げ解散公演』だって。1回だけやったら解散していいのって。それで心が動いちゃってね。本当は騙しで、その後も5、6回やったんだけど。上手に乗せられましたよ。

――2018年、80歳で出演した『魔がさした記念コントライブ 死ぬか生きるか!』も三宅氏の仕掛け。

 三宅さんから電話があって『伊東さん、コントライブがいいですか、芝居がいいですか』って、いきなり。前振りがないんですよ。で、こっちも乗っちゃって。彼はそういうところがうまくてね。

―劇作家・三谷幸喜氏との出会いも印象的だったと振り返る。
 
 55歳の時かな。そろそろ舞台の仕事はなくなるのかとぼんやり思っていた時、テレビドラマで共演した石井愃一さん(劇団東京ヴォードヴィルショーの役者)から「舞台やりませんか」って声がかかった。聞いてみると三谷幸喜さんって若い脚本家が今度うちの劇団に書いてくれるのだという。その作品で伊藤博文の役があるけどやりませんかって。

 じゃ、とにかく三谷さんって人の芝居を観てみたいからって、当時上演していた『12人の優しい日本人』を観に行ったの。それでこの人が書くものだったら面白いかもしれないなって思って出演することにしたんだよ。それが『その場しのぎの男たち』』(1992年)。明治時代の大津事件を扱った作品で、本当に物語のようなドタバタが日本政府にあったんじゃないかと思わせるような面白さにびっくりした。そんな縁で、その後も三谷さんとは何回もやらせてもらっていますね。

―人前に出ることが実は苦手と言う伊東さん。だが、喜劇やコントとなるといくつになっても血が騒ぐという。

 笑いってのは、お客さんが笑ってくれなきゃ成立しないですから、それだけにプレッシャーはうんとかかるんですよ。真面目な芝居はそういう意味ではプレッシャーはないですね。必ずウケるとも限らないし、笑いは非常に怖い。さんざん稽古してもここがウケると思っているところが、全くウケなかったりね。その逆もある。

 ある時、佐藤B作さん(劇団東京ヴォードヴィルショー主宰)と共演した舞台で、何でもない芝居のところでなぜかウケることがあったの。ふたりして何が面白いのって首をかしげたこともあった。芝居の流れというのは生き物だなって思いつつ、やっていますね。

 そういう難しさでいえば、一回挫折したことがあるんです。ある時、名古屋で喜劇をやったんですけど、初日に大爆笑をとったトコロが、次の日から千秋楽まで全くウケなくなった。何をやってもダメ。初日はどうやったのかもわからなくなった。
 今振り返ると原因はセリフのタイミングしかないんですよ。コンマ何秒の間まのズレが命取りになったんだと思う。

 喜劇で一番やっちゃいけないことは相手のセリフを覚えちゃうことなんです。何日も稽古していると、自然に覚えちゃうんですけどね。すると相手のセリフを知っているぞって、顔になるんですよね。ところがお客さんは初めて見るし、聞くわけですから、そこにズレができる。するとウケない。いったん、覚えたセリフは忘れないといけない。

何かを覚えると自分に自信がもてる

―物柔らかな口調で語り続けるも、その言葉の行間には喜劇への並々ならぬ愛が読み取れる。怖いと言いながらも今後も喜劇のオファーがあれば引き受けますか? と問うと「いったんは拒否すると思うけど…やるかもしれないね」と喜色をたたえる。そんな伊東さんにとって「100歳までにしたいこと」はやはり喜劇…!?

 そこに持っていきますか。まさか今さら『シェイクススピア』をやりたいとは思わないけどね。自分が100歳まで生きるなんて全くイメージしてないからそんなこと考えたこともなかったけど、一番やりたいことですぐに思浮かんだのは、テニス。

 55歳の時に始めて20年続けたんですよ。今はヒザを壊してやってない。テニスほど面白いスポーツはないと思ったね。俊敏な動きが必要で、練習していけば、少しずつでも自分が成長していくのが実感できた。最初は打ち返したら当然ホームランですよ。ロブを打ち上げられても、背中から後方に走って頭から転んでいたしね。それがいつの間にか振り向いて後方に走れるようになって平然と打ち返している。それまではゴルフをやっていたけど、テニスは全身を使っての俊敏な動きが必要で、対戦スポーツとしての駆け引きや戦略とかもあって、自分の性に合ったんだろうね。

 ハマった後は、よくゴルフなんて続けてたな~なんて思ったもんだよ。今は、運動はウォーキング程度。歩いている途中で、テニスコートで楽しそうにやっている人たちを見かけると、足早に駆け抜けています。悔しいからね。

―21歳でデビューして芸能生活60余年。終活を始めたり、セミリタイヤしたりするシニア芸能人がいるなかで、今もなお現役生活を送る伊東さん。シニア世代に向けた、人生を愉しむ秘訣としてこんなエールを送る。

 記憶する楽しさというのはあるんじゃないのかな。何でもいいから、何か覚えてみるのはいいもんですよ。私の場合は、セリフを覚えるのが仕事なので、これができなくなると廃業するしかない。それで、セリフ覚えの助けになるようなことをしたいと思って始めたのが、何かモノを覚えてブツブツしゃべること。

―これまでに覚えたジャンルは実に多彩。アメリカの全50州名をはじめ、Jリーグや米メジャーリーグのチーム名、日本の旧国名、世界各国の国名など、取材現場でよどみなく単語を発して見せた。「世界の国名は199まで覚えてやめてるの。中途半端がいいんですよ」と遊び心も忘れない。なかでも周囲から絶対無理と言われたのが百人一首だという。

 覚え方もバリエーションがあるんです。まず歌そのものを百首覚えるでしょ。それから作者と歌をセットで覚えたり、下の句を見て、上の句が言えるように覚えたり。それだけでも300通りはあるんじゃないかな。ある種の脳のエクササイズですね。みんなにそんなことできないって言われたけど、できるんです。私がやったんだから。

 それとか円周率を覚えてみるとかね。ちゃんと覚えようとすると、頭に入ってくるもんなんですよね。3.14159265358979323846って(※編集部注…ご名答でした)。こんなことブツブツ言うんです。やっていると退屈しないですよ。

 脳細胞って一生の間に使わないところがあるらしいじゃない。だから遊んでいるところを使い続けていれば、セリフも覚えやすいかなと勝手に思っているんですけどね。覚えると自分に自信も持てるし、脳が瑞々しくなっていくような気がします。
 そんなことやりながら、これからもオファーがあれば仕事はやり続けます。断ると誰かがやるでしょ。それ見るのが一番嫌なんですよ。悔しいですから。そういう心持ちじゃないと続けられないのかもしれないね。
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伊東 四朗

いとう・しろう
1937年、東京都出身。
1958年より劇団「笑う仲間」に参加。
その後、石井均一座など舞台喜劇の世界で活動。
63年頃から「てんぷくトリオ」として人気になり、
その後も『てなもんや三度笠』『みごろ! たべごろ! 笑いごろ!』
『笑って! 笑って!! 60分』など人気番組に出演。
国民的ドラマとなったNHK朝の連続テレビ小説『おしん』でも好演を見せた。
82歳の現在もドラマや映画、舞台、CMなど多彩な活躍を続ける。
親父熱愛(オヤジパッション)毎週土曜日 15:00〜17:00(文化放送)出演中。
オフィシャルウェブサイト → http://www.orute.co.jp/

いとう・しろう
1937年、東京都出身。
1958年より劇団「笑う仲間」に参加。
その後、石井均一座など舞台喜劇の世界で活動。
63年頃から「てんぷくトリオ」として人気になり、
その後も『てなもんや三度笠』『みごろ! たべごろ! 笑いごろ!』
『笑って! 笑って!! 60分』など人気番組に出演。
国民的ドラマとなったNHK朝の連続テレビ小説『おしん』でも好演を見せた。
82歳の現在もドラマや映画、舞台、CMなど多彩な活躍を続ける。
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オフィシャルウェブサイト → http://www.orute.co.jp/

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