岸和田古城の跡地はいま
明治期の古地図を見てみると、この一帯は葛城山系の高所から大阪湾に向かって斜面が下りきる手前の田畑に囲まれた町場となっています。かつての城跡と伝わる一角は現在次の写真のような状況。

この高まりの一帯からは濠や土塁が発見され高まりを1キロ近く上った岸城中学校のあたりまでが城の敷地だったと推定されるということです。城は西の出丸・本丸・二の丸(・三の丸?)が海側から山側へ東西に連なる構造で、最も西頼のところに堰(土塁)を築けば、段々畑の水が溜まってダムの様に城周りの水田を水堀と化すことができたと伝えられます。その城主は和田氏。
大阪湾を望む岸辺を和田氏が支配したところから、「岸の和田」転じて岸和田の地名になったといいます。その和田氏も岸和田古城とともに姿を消し、城跡もすっかり面影を失ってゆっくりと眠っています。
おまけに、この岸和田古城主・和田氏ゆかりの城跡をもうひとつ。
こちらは家臣の沼氏の館(城)跡です。

現代においてこの境内が戦国の鬨の声のような男達の叫びに包まれるのは、秋のだんじり祭の宮入りのときですね。
WRITTEN BY
橋場 日月
橋場 日月
はしば あきら
大阪府出身。古文書などの史料を駆使した独自のアプローチで、新たな史観を浮き彫りにする研究家兼作家。主な著作に『新説桶狭間合戦』(学研)、『地形で読み解く「真田三代」最強の秘密』(朝日新書)、『大判ビジュアル図解 大迫力!写真と絵でわかる日本史』(西東社)など。
橋場 日月
はしば あきら
大阪府出身。古文書などの史料を駆使した独自のアプローチで、新たな史観を浮き彫りにする研究家兼作家。主な著作に『新説桶狭間合戦』(学研)、『地形で読み解く「真田三代」最強の秘密』(朝日新書)、『大判ビジュアル図解 大迫力!写真と絵でわかる日本史』(西東社)など。
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