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美麗な石室を持つ大方墳に見る総社古墳群一族の情熱と誇り【古墳ライターが旅した、見た、聞いた!vol.6】

古墳時代の後期から終末期(6〜7世紀)にかけて、歴史の大きなうねりを受け、上毛野の地(現在の群馬県)にも大きな勢力図の変革が起きた。そのトップに躍り出たのが総社(そうじゃ)古墳群の中の一基、愛宕山古墳の被葬者だった。三代にわたってヤマトにも劣らぬ壮麗な石室を持つ大型方墳を築造し続けた一族のダイナミズムに迫る。

長く円墳と考えられていた愛宕山古墳だが、測量調査によって方墳だということが明らかになった。これにより、総社古墳群の歴史解釈も大きく転換した。

方墳だった愛宕山古墳が指し示す歴史の事実

群馬県前橋市総社町にある総社古墳群は5世紀後半から7世紀後半まで、脈々と古墳が築造された地である。

まず、5世紀後半に竪穴式系の埋葬施設と推定される遠見山(とおみやま)古墳が築造され、その後、6世紀初頭に横穴式石室を埋葬施設とする王山(おうやま)古墳や王河原山(おうかわらやま)古墳(消滅)が築造された。以降は、総社二子山(そうじゃふたごやま)古墳(6世紀後半)⇒愛宕山古墳(7世紀前半)⇒宝塔山(ほうとうざん)古墳(7世紀中葉)⇒蛇穴山(じゃけつざん)古墳(7世紀後半)へと古墳築造が続けられた。

「総社愛宕山古墳(以下、愛宕山古墳)のことを知るには、一つ前の代に築造された総社二子山古墳(以下、二子山古墳)について知っておく必要があります」と、群馬県立歴史博物館の特別館長で、橿原考古学研究所の特別指導研究員である右島和夫さんは言う。

二子山古墳は群馬を代表する前方後円墳である、綿貫観音山(わたぬきかんのんやま)古墳(高崎市)とほぼ同時期の6世紀後半に築造された前方後円墳だ。墳丘規模は2基とも100m前後とこれもほぼ同じで、この時期の上毛野地域において、拮抗する力を持った豪族の存在を知ることができる。

右島さんはこれらの古墳の次に現れる愛宕山古墳の時期に、総社古墳群勢力がトップに躍り出たと考えている。じつは愛宕山古墳は、長らく円墳と考えられていたが、右島さんはかねてより円墳ではなく方墳の可能性があると考えていた。ある時、単独で古墳の深い藪に分け入り、墳丘の直線的なかたちが確認できて、「方墳だ!」という確信を持ったという。その後、1988年に群馬県史編纂事業で墳丘測量調査が実現し、正式に方墳であることを自身の目で確認した時は、深い感動を覚えたそうだ。

この調査によって、総社古墳群の中で二子山古墳が最後の前方後円墳であり、その後、愛宕山、宝塔山、蛇穴山古墳という大方墳が続いたことが判明した。なぜ、突然、墳形が方墳に変わったのだろうか?そして、その後、三代にわたって方墳を築造し続けたのだろうか?

大型の古墳として前方後円墳3基、方墳3基が現存 する総社古墳群。東国の力ある古墳群の一つだ

頭一つ躍り出た上毛野の新しきリーダー

愛宕山古墳は一辺56mの大型の方墳で、7世紀前半の築造という。墳丘斜面に川原石を葺き、テラス面に石が敷かれた美しい古墳だったことが最近の発掘調査で明らかになった。

埋葬施設は巨石を積み上げた両袖式で、畿内スタイルの横穴式石室を踏襲している。玄室奥には凝灰岩製の刳抜式家形石棺(くりぬきしきいえがたせっかん)が置かれているが、この時期の関東全域において家形石棺は愛宕山古墳以外に確認できないという。

7世紀の畿内地域では、用明天皇や推古天皇などの天皇陵をはじめ、蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳のように、最高権威者が巨大方墳を次々と採用していった。同時進行で、遥か遠い上毛野の地で天皇と同じ形の古墳を築造し、しかも刳抜式家形石棺を採用できたことは一体、どういうことなのだろうか?

「愛宕山古墳の被葬者とヤマト王権に非常に濃い関係があり、ある意味、格別な扱いを受けていたのではないでしょうか」

この時期、ヤマト王権が中央集権的な支配体制を固めつつあり、東国進出を開始していた。東国の中でも豊かな農業資源に恵まれ、牧で馬を育てるのに適した広大な山麓の平野を有する上毛野地域を注視しても不思議ではない。

「それ以前も総社古墳群のリーダーたちはヤマト王権との結びつきを大切にしてきましたが、一層、確固たるものにしたのが愛宕山古墳の被葬者だったのでしょう。ヤマト王権から有利な条件を持つ重要地域と認められた上毛野の地を支配し、王として直接、任命を受けたのではないでしょうか」

畿内を中心とした支配体制に直接組み込まれながら、ヤマト王権の威信を後ろ盾にして、愛宕山古墳の被葬者は名実とも上毛野の盟主へと躍り出たのだろう。

愛宕山古墳の凝灰岩製刳抜式家形石棺は被葬者とヤマト王権との濃い結びつきをうかがわせる
愛宕山古墳以降、総社古墳群の一族は、ヤマト王権に倣うように、三代にわたって方墳を築造し続けた

上毛野盟主の歴史絵巻?総社古墳群の連続性

総社古墳群では、愛宕山古墳の後、宝塔山古墳、蛇穴山古墳と巨大方墳が築造される。その石室の変遷が非常に面白い。7世紀中頃の築造で、一辺66mという巨大方墳の宝塔山古墳石室の玄室は、つるっと美しく表面加工された切石を使い、石組みに「截石切組積(きりいしきりぐみづみ)」という新たな工法を採用している。石室全体に漆喰を塗り、真っ白な空間に仕上げていたらしい。玄室の中央にある刳抜式家形石棺は、下部に「格狭間(こうざま)」という構造が四隅に造られていて、完成度の高い意匠を持っている。

「截石切組積」という新たな技術を取り入れたデザイン性 に優れた宝塔山古墳の石室。石室全体に漆喰を塗っていたそうで当時はどんなに壮麗だったことだろう

蛇穴山古墳は7世紀後半の築造で、一辺44mという、こちらも大方墳だ。南に開いた石室の前に、墓前祭祀(ぼぜんさいし)のための前庭をつくっている。玄室は両側、奥壁、天井それぞれが、平らに滑らかに加工された各一石の巨石を用いている。なんと美麗でモダンな仕上げだろう。さらに、石材の周囲を欠き取ってぱちっとはまるような精巧な仕組みが見て取れる。宝塔山古墳と同様、石室には漆喰が塗られており、輝くばかりの空間だったはずだ。

宝塔山古墳の石室よりさらに美しく洗練された蛇穴山古墳の石室。側壁・奥壁・天井石の迫力に圧倒される

まさに、贅を尽くした三代に渡る華麗な方墳物語といえる。総社古墳群の勢力はヤマト王権との強く濃いパイプを持ち続け、長らく権力の座にあったのだろう。

7世紀頃になると古墳は小型化して、もう一つのステイタスシンボルとして寺院が建立されるようになる。総社古墳群
の近くにも、畿内の有力寺院に匹敵する山王廃寺(さんのうはいじ)という古代寺院が建立されているが、おそらく総社古墳群の一族が建てたものだろう。

今に残る山王廃寺塔心礎。当時の上毛野の盟主はどんな思いで寺院を建立したのだろうか

「寺院建築に力を注ぎながらも、彼らは並行して古墳の築造にも力を注ぎ続けました。上毛野地域の盟主一族の誇りと気概を持って、美麗な石室を持つ方墳を造り続けたのではないでしょうか」

\今月のナビゲーター/

群馬県立歴史博物館 特別館長・橿原考古学研究所 特別指導研究員
右島和夫さん
1948年、群馬県生まれ。群馬大学教育学部
卒業、開西大学大学院文学研究科修士課
程修了。博士(文学)。群馬県埋蔵文化財調
査事業団調査研究部長、群馬県教育委員会
文化課主監などの勤務経験を経て、2016年
4月に群馬県立歴史博物館館長に就任。
2020年4月より現職。主な著書に「東国古
墳時代の研究」(学生社)、「列島の考古学
古墳時代」(共著・河出書房新社)、「群馬の
古墳物語(上・下)」(上毛新聞社)など多数


写真提供:前橋市教育委員会

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郡 麻江

こおり・まえ 古墳ライター。 時々、添乗員。京都在住。得意な伝統工芸関係の取材を中心に、「京都の人、モノ、コト」を主体とする仕事を続けながら、2018年、ライフワークと言えるテーマ「古墳」に出会う。同年、百舌鳥古市古墳群(2019年世界遺産登録)の古墳ガイドブック『ザ・古墳群 百舌鳥と古市89基』(140B)、『都心から行ける日帰り古墳 関東1都6県の古墳と古墳群102』(ワニブックス)、『巨大古墳の古代史』(共著・宝島社新書)、『中公ムック 日本百名墳』(中央公論新社)などを取材・執筆。古墳や古代遺跡をテーマに、各地の古墳の取材活動を続ける。その縁で、添乗員の資格を取得。古墳オタクとして、オン・オフともに全国の古墳や遺跡を巡っている。日本旅のペンクラブ会員。

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