節分は春夏秋冬、年に4回ある
松飾りがとれるとスーパーのレジ付近に鬼打ち豆が並ぶようになり、節分が近いことを実感する。
実は、節分は2月だけではなく、5月・8月・11月にもある。具体的にいうと、立春・立夏・立秋・立冬の前日を指す。翌日から春(夏・秋・冬)になるので、「季節を分ける日」という意味で「節分」と呼ばれるのである。
では、なぜ節分というと立春の前日のことを指すようになったかというと、ほかの3回にはこれといった行事が行われなかったからだ。いっぽう、立春の前日の節分には、魔を払う儀礼が行われてきた。
だが、この魔を払う儀礼は、もともとは大晦日に行うものであった。
「年取り」「年超え」とも呼ばれる節分
大晦日の行事が節分の行事になった謎を解く鍵は暦にある。現在使われている太陽暦(太陽の運行を基にした暦)では、正月と節分の間は1月強ほど離れているが、江戸時代まで使われていた太陰太陽暦(太陽の運行をもとに補正した太陰暦=月の運行を基にした暦)では、正月は節分の前後にくる。
このため大晦日と節分の儀礼が混同されるようになった。
また、春の節分を正月と考える習俗もあり(節分を迎えることを「年取り」「年越え」という地方があるのは、その名残と考えられる)、こうしたことから大晦日行事が節分に行われるようになったらしい。
その正確な時期はわからないが、室町時代頃といわれている。
じつは鬼は、魔を払うイイ奴だった!?
鬼に扮した先生に園児たちが豆をぶつけて追い払う──これは節分の日のニュースで決まって流れるトピックスであるが、この儀礼、本来は豆を投げるものではなかった。しかも、鬼は悪者ではなく「魔を払うもの」であった。
江戸後期、摂津三田藩主だった九鬼隆国は、江戸城内で平戸藩主の松浦静山に九鬼家の節分儀礼のことを聞かれ、こう答えている。
「節分の夜、当主は恵方に向かって座り、年男がほかと同じように豆をまきます。ただし、唱え言は『鬼は内、福は内、富は内』と言います。次の間では『鬼は内、福は内、鬼は内』といたします」
この会話を松浦静山が『甲子夜話』にわざわざ記録していることから、当時も「鬼は内」と言うことが珍しかったことがわかるが、この唱え方はもともとは鬼が魔を払う主役であった痕跡なのである。
4つ目をした正義の味方
この魔を払う儀礼のもとになった大晦日の儀礼を「追儺(ついな)」という。
陰陽道などとともに中国から伝わったもので、日本で初めて行われたのは慶雲3年(706)だとされる。間もなく宮中儀礼に取り入れられ、平安初期には次のように行われていたという。
群臣が立ち並ぶ中庭に、4つ目の仮面をつけて熊の皮をかぶり鉾と盾を持った方相氏(ほうそうし)が20人の配下を引き連れて登場する。陰陽師が祭文を唱え終わると、方相氏は大声を発して鉾で盾を3度叩き、群臣が桃弓で葦矢を放って悪鬼や病魔を払う。
目が4つとは正義の味方らしからぬ異形であるが、その恐ろしさで悪鬼や魔障を打ち破るのだろう。
ここで注意すべきは、払われる悪しきものは目に見えていない、ということだ。見えているのは、異形の方相氏が活躍する姿だけだ。そのためか、やがて方相氏が魔物ととらえられるようになり、平安後期には群臣が方相氏めがけて矢を射るようになった。
この悪役化した方相氏が節分の鬼の起源なのである。
寺院の節分儀礼の中には「魔を払う者」の記憶が残っているところもあり、神戸市の近江寺では鬼を毘沙門天の使いとしている。
豆まきや恵方巻きの起源は?
ところで、九鬼家の当主が「恵方を向かって座る」と言っていたところで、恵方巻きのことを連想された方が多いのではないかと思う。
恵方とは歳徳神(としとくじん)がおられる縁起がいい方角のこと。歳徳神はその年の恵み(収穫や吉運など)をもたらす神様であるが、年ごとにいる方角が違うとされる(今年は北北西が恵方に当たる)。
恵方は何をするにもいい方角とされ、この方角の社寺を参拝することを「恵方詣で」という。恵方巻きは節分に恵方を向いて太巻き寿司を丸かじりするというもので、無言で食べきると願い事がかなうとも、福が授かるともいわれる。また、カットしないのは「良縁を切らないため」ともいう。
その起源は大阪にあるといわれるが、民俗行事としてそのようなものが行われていた形跡は確認されておらず、1989年頃からコンビニを中心に広まったもの考えられている。
なぜ豆をまくようになったのか
豆をまくようになったのも、追儺が節分儀礼となった室町時代頃のことらしいが、なぜ豆をまくのかは、今ひとつはっきりしない。『古事記』『日本書紀』には、イザナギ命が黄泉の国で黄泉醜女(よもつしこめ)という鬼神に追われた際、桃の実を投げて追い払ったことが書かれているが、豆にもそうした呪力があると信じられたのだろう。
高僧が炒り豆を鬼の目に当てて追い払い「この豆が芽を出すまで戻ってくるな」と言ったという伝説も伝わる。一説には豆は「魔滅(まめ)」に通じるから鬼退治の力があるのだとするが、後づけの語呂合わせのように思える。
大豆・鰯の頭・ヒイラギの葉の由来
仏教民俗学の五来重氏によると、大豆は厄年の者が厄落としに使っていたのだという。歳より1つ多い豆を紙に包み、それで体をなでて厄を写し辻などに捨てた。これが投げ捨てる形になり、鬼を打つ豆に変わったと推測されている。
節分には門口にヒイラギの葉や鰯の頭(これを「やいかがし」などという)を飾ることがあるが、この習俗は承平5年(935)頃に成立した『土佐日記』にも書かれている。主人公は元日に小家の軒先のしめ縄に鰯の頭とヒイラギの葉が挿してあるのを見て、都への思いを強くしている。
この「やいかがし」は臭気やトゲで鬼を追い払うのだとされるが、もとは燃やしてその臭気や音で魔を避けたものらしい。あるいは豆も炒る音で鬼を払ったのかもしれない。