このシリーズは、考古の世界への旅の先達、専門ナビゲーターとして、毎回、考古学の専門家にさまざまなアドバイスをお願いしています。今回の先達は、滋賀大学名誉教授の小笠原好彦先生です。文中に先生のコメントも登場しますのでお楽しみに…!
かねてから古代の地域の特性、特に古墳時代の地域性を知るには河川、あるいは海の存在が大きな影響を与えているのがわかっていたが、広島県のキーワードは「川」だった。
広島市街地に美しい川がいく筋も流れ、水の都のイメージがあるが、北部の山間部や盆地にも大きな川がいく筋も流れている。
面白いのは、県内の主な河川の中で、東部を流れる芦田川、中部の沼田川、西部の太田川は瀬戸内海に流れ込んでいるのだが、三次盆地を流れる江の川(ごうのがわ)は、馬洗川(ばせんがわ)と西城川、神野瀬川(かんのせがわ)と合流し、中国山地を横切って、なんと日本海側へ、島根県の江津(ごうづ)市に注いでいるのだ。
中国山脈を挟んで、瀬戸内海側と日本海側にそれぞれ真逆に向かって流れる川を擁する安芸の国。河川はまた国と国との境界線にもなる。境界線に位置する古代・安芸の国の人々は、ヤマト一辺倒ではなく、日本海側にも意識を向けるというグローバルな視点を持っていたはず。遺跡や古墳をめぐりながら、そのあたりを読み取っていきたいと思う。
三次盆地の川の道〜日本海と瀬戸内海をつなぐ内陸部のルート
古代から広島県を捉えた時、面白いのが、三次盆地という土地だ。中国山地のセンターラインの南側に位置する盆地で、広島県内で最も広い盆地だという。
じつは広島県は全国でも有数の古墳発見数が多い県で、2017年の調査では、全国なんと第6位となっている。その時点で11,311基の古墳が発見されていて、中でも三次盆地には約4000基の古墳が集中しているという。
つまり、古墳時代、何らかの理由で三次という地域は、重要な存在だったのだ。そこには「川」の存在が大きく影響している。
江の川(ごうのがわ)の終着点は島根県の江津(ごうづ)市ということは書いたが、それはつまり、出雲との繋がりを意味する。この川を使って、三次盆地の人々は、出雲と行き来し、物資や文化も活発に往来していただろう。
この地を訪れるまでのイメージは、古代、安芸の国もまた、瀬戸内の海ルートのラインに沿って、九州やヤマトを意識しているものとばかり考えていたが、それは違った。
出雲とのルート、そして吉備とのルートを持ち、古代国家の中でも大きな力を持つクニとの密接なつながりがそこにあったのだ。
まさしく日本海と瀬戸内海をつなぐ「川の道」。そのちょうど、結節点に三次盆地があったのだと言える。川はまた、国と国、土地と土地の境界を意味する。この地は結節の地として、また境界としての重要な意味を持つ場所として、古代、多いに繁栄したのではないだろうか。
人が動けば土器も動く。矢谷墳丘墓(やだにふんきゅうぼ)から陣山墳丘墓群(じんやまふんきゅうぼぐん)へ
矢谷墳丘墓
三次市南部の丘陵地に、弥生時代の終わりに築造された矢谷墳丘墓がある。工場や倉庫が並ぶエリアから、丘の上に向かってしばらく歩くと、ああ、あの独特のかたちが見えてくる。四方に、にょーんと手足を伸ばしたような四隅突出型墳丘墓がでんと鎮座している。高さはあまりなくて平たいので、なまけものの動物がのっぺりと寝そべっているようにも見える。しかし、この墳丘墓はとても興味深いものを語りかけてくれる。
まず、埋葬施設が11基も確認されている。営々とここで栄えた一族の墓なのだろうか。何より面白いのが、墳丘墓の周りに「特殊器台と特殊壺のセット」が立てかけられていたという。
これは実際に「みよし風土記の丘」の広島県立歴史民俗資料館」で実物を見ることができるが、とにかく背が高くて大きい…!他地域ではあまりこの形態は見ることはできないそうだが、特殊器台と壺をなぜ重ねてセットにしたのか?謎だ。
さらに面白いのが、これら特殊器台と壺は、吉備の南部で作られていて、出雲や近畿地方に運ばれたことがわかっていることだ。まさに「川の道」が運んだものに違いない。また、同様に山陰地方の弥生土器とみられるものも発見されている。
吉備―出雲ルートの中間地点の三次盆地では、日本海側と瀬戸内川の文化が出会い、独特の地域性をかたちづくっていったのではないか。前出の風変わりな「特殊器台と特殊壺のセット」もこういった独特の文化形成から生まれたものかもしれない。
土器が動けば、それは人が動いている」ということになる。ひいては文化も動き、交流する。
土器の動きや変遷を見ると、人や文化のダイナミックな動きもわかると言うが、まさしくそれを垣間見た気がする。
矢谷墳丘墓から周囲を見渡すと眺めがとてもいい。遠くに山並みが連なって、山々に囲まれた盆地だということがよくわかる。に違いないだろう。
さらに隣接する墓からもすごいものが見つかっている。青いガラス玉が発見されたのだが、これはなんとローマ帝国産のガラスの可能性が高いそうだ。日本から中央アジア、そしてヨーロッパ圏に、当時すでに広大な流通網があったと思うと、ここからの景色がさらに雄大に見えてくる。その後、古墳時代になると、古墳がどんどん築造されていく。三次の地はヤマト王権から見ても、出雲からの脅威の防護ラインとして、非常に重要な地だったのだ。
小笠原先生のコメント
四隅突出型墳丘墓は、墳丘の四隅に通路を設けたものといわれています。四隅が通路だとしますと、この墳丘墓での葬送儀礼では、墳丘墓を前にして、たとえば右側に被葬者の首長一族の人たち、左側に同族でない多くの人たちが参列した状況が想定されます。
そして、同族の人たちは右側の通路から墳丘に上がり、埋葬された被葬者の前に設けられた供献する台に供物をささげ、右側の奥の通路から降りたものと推測します。
また、一族でない人たちは、左の通路から墳丘墓に上がり、供献後に左奥の通路から降りるという葬送儀礼をおこなったものと思います。このような現代の葬儀にも通じるような進んだ儀礼を採用した墳丘墓だったのではないか、と私はかねがね考えています。この矢谷墳丘墓からは、最も古い形式の円筒型の特殊器台が出土していますので、四隅突出型墳丘墓が成立した初期の墳丘墓ということになるでしょう。また、四隅突出型墳丘墓には、それまで低かった器台が大型化し、酒を供献した大型壺が伴っているのはなぜか。
これは、それまでの葬送儀礼では、坐っておこなわれていた葬送儀礼が、多くの人たちが参加し、立っておこなう立礼に変化したのではないかと思います。
陣山墳丘墓群(じんやまふんきゅうぼぐん)
みよし風土記の丘の北西方、三次市向江田町の馬洗川北側の丘陵上にある陣山墳丘墓群。丘の上までは見上げるほどの角度があって、登り切ると息が上がってしまう。
四隅突出型墳丘墓を含む5基の墳丘墓が見つかったが、ここから出土した土器は「塩町式土器」といって、非常に特徴的なものだという。
塩町式土器は、広島県の弥生時代において馬洗川下流で中期に出現したもので、凹型の線を幾重にも巡らせるなどの造形的な特徴がある。この地域を中心として見つかっているが、尾道や福山などの備後地域では見つかっていないことから、三次地域の馬洗川下流の地域で独自文化を営んだ集団がいたとも考えられるそうだ。
陣山墳丘墓群からのこの土器が見つかっていることから、5基並んだ墳丘墓郡は塩町文化を営んだ一族の墓と思われる。
この丘の上には、5基の四隅突出型墳丘墓があったそうだが、残念なことに今、その姿を見ることはできない。が、急な丘の上から下を見下ろすと、かなりの高さがあり、しかも墳墓群として複数の墓が築造されていることからも、この地に重要な影響を与えたリーダー一族の墓域だということは実感できる。
独特の文化を持ちながらも、この地域は地理的に交易、交流の拠点という性格もあったはずだ。矢谷墳丘墓と同様、古代から様々な人や文化が行き交う地を、上手く掌握した優れたリーダー一族の姿を思い浮かべることができる。
小笠原先生のコメント
陣山墳丘墓群軍は、下から見上げるような台地の上に造られています。ここでは、四隅突出型墳丘墓をふくむ5基の石をはりつけた墳丘墓が並んで見つかっています。そして、この墳丘墓群のなかに、四隅突出型も含まれていました。
このような墳丘墓群の状態からすると、四隅突出型が創出された、あるいは出現に至る過程が示されているように思います。ある意味では、この遺跡からは、四隅突出型という特異な墳丘墓が成立するに至るまでに、少なからずの試みがあり、その結果として、この特異な形態の墳丘を採用して葬送儀礼を行うことになったという、四隅突出型墳丘墓が成立した過程を私たちに示しているように思います。
ポコンポコンと古墳が続く…! みよし風土記の丘〜浄楽寺・七ツ塚古墳群へ
みよし風土記の丘の中にある二つの古墳群。エリア内を少し歩くともう、大小のぽこぽこ古墳が見えてくるので、うれしくなってくる。約30ヘクタールの広大な敷地の北側に展開するのが116基の古墳が確認されている浄楽寺古墳群で、歴史民俗資料館の近くの南側には、60基の古墳が確認されている七つ塚古墳群が展開している。
発掘調査で埴輪や須恵器、鉄器、玉類の他、人骨が出土した。主に5世紀を中心に古墳群が形成されたそうだが、4世紀~7世紀築造の古墳があることもわかっている。
三次盆地では5世紀ごろ、倭の五王が活躍した時代に突然、古墳の築造が増えたという。
諸説あるけれど、小さな古墳からも武器がよく出土することから、ヤマト王権の大陸を睨んだ施策の中で、三次盆地を軍事行動において重要拠点のように考えていたのではないだろうか。
三次にも軍事組織が編成されたと予想できるが、こんな内陸部になぜ?とやはり考えてしまう。しかしもう一度地形を見直してみると、ここが険しい山々が続く中で、平らに開けた土地であり、大きな河川が近くを流れ、軍隊や軍事物資を運ぶ山間の拠点になったのではないかという説も肯ける。
浄楽寺・七ツ塚古墳群内の古墳は、墳形にも特徴がある。この古墳群の78%が円墳で構成され、中には直径約46mの大型の円墳もある。マップを見ると、カエルの卵のように連なった円墳の群集墳が見える。
小笠原先生のコメント
古代の三次盆地は、瀬戸内海と日本海の出雲地域を結ぶ重要な交通の接点となるところでした。また、北へ流れる江の川の上流地域にあり、河川によって大きな船を造りうる木材を漕運しうる地域だったと推測されます。
この三次盆地に築造された浄楽寺・七ツ塚古墳群は、前方後円墳の首長墳も含んでおり、しかも各地で6世紀に築造される群集墳に先立って多くの円墳が築造された有力氏族の古墳群だったと推測されます。この古墳群が築造された5世紀代は、倭の五王による中国との国家的な外交が行なわれた時代です。このような5世紀代に、ここは瀬戸内海と日本海を結ぶ交通上の要衝であったこと、船を造る木材を供給しうる地であったこと、さらに造船技術をもつ木工工人をも擁した有力氏族の本拠だったのではないかと推測されます。
山奥の不思議な古墳、甲立古墳(こうだちこふん)。 被葬者は戦略的重要地を治める者=畿内からの派遣者?
安芸の国の古墳で何よりも不思議な魅力に溢れているのが、甲立古墳だ。安芸高田市の山間部の奥深く、甲田町の菊山という山の中腹の斜面に、墳丘長77.5mの前方後円墳が平成20年に偶然発見された。
山道をとにかくひたすらテクテクと歩いていく。こんな奥に本当に古墳が…?と思うけれど、かなり登ったあたりでようやく看板が見えてきた。
その先の木々がまばらな場所に発掘中のブルーシートが見えかくれして、そこが古墳だということがわかる。最初に見えてくるのが後円部だ。ここでは様々な埴輪が見つかったが、かなり精巧な造りだったという。
後円部の中央に埋葬施設があることがわかっているが、ここは未調査なので副葬品まではわかっていない。また後円部には石敷の区画が見つかっていて、ここに5基の家形埴輪が一列に配置された状態で発見された。
家形埴輪は切妻造高床(きりつまたかゆか)建物2基、囲型(かこいがた)状の建物が1基、小型の家形が2基で、それぞれ相当、精巧な造りで、これを造った埴輪の工人の腕の確かさ、クオリティの高さから、畿内と比べて遜色のない技術の高さが見て取れるらしい。
家形埴輪といえば、群馬の赤堀茶臼山古墳からも数多くの埴輪が見つかっている。家形埴輪は、生前の被葬者の居館の様子を表しているという説を聞いたことがあるが、墳丘にたくさんの家形埴輪を配することにどんな意味があるのだろう?被葬者にとって実際の家や建物という存在はどんな関わりがあったのだろう?
また甲立古墳からは子持家形埴輪という珍しい埴輪も出土していて、埴輪の凝った造りとクオリティ、位の高い人物にしか許されなかった前方後円墳の築造ということと合わせても、かなり畿内色の濃さを感じさせる。被葬者はヤマト王権とかなり密接な人物であり、また、この古墳の築造にはヤマト王権が直接からんでいたのではないか?とも考えられている。
さらに不思議なことに、この古墳からは立派な船形埴輪も見つかっている。船形埴輪がなぜこんな、海から遠く離れた山奥で見つかったのか?それはやはり、「海の道」、そして「川の道」が深く関わってくるのだ。
この古墳は本村川という川の北側にある。本村川の上流は中国山脈につながっていて、山を越えればそこは日本海へと通じていく。4世紀後半から5世紀にかけて、大陸との交流には、海、そして河川が不可欠だったが、その主要なルートの一つに、日本海からこの本村川を通って、安芸の内陸部から瀬戸内へ抜けるルートがあったとも言われている。
日本海の雄である出雲の勢力、そして瀬戸内の覇権を持っていた吉備の勢力。安芸という国は、まさに二つの大国の接点にあって、それらをたくみにつなぐ役割だったのかもしれない。もしかすると瀬戸内川よりも、むしろ。日本海側との交流を重視していたのでは?と言う説もある。難しい立ち位置をコントロールしなくてはいけない重要な地には、ヤマト王権から地位の高い人物が常に常駐していたのではないだろうか?
小笠原先生から大変貴重な説を伺ったので、記しておこうと思う。
―中国への国家的な外交にともなう使節には、大和政権から大使が派遣された。また大使のみでなく、地方出身の有力氏族である副使も派遣されている。この古墳の被葬者は、その副使の任務をつとめたのでないか。派遣する船による航海には、なにはともあれ船を漕ぐ多くの水夫(水手)が不可欠であった。これらの多人数の水手を指揮し、また船での航海中に食事の手配や必要とする水をはじめとする諸物資を調達を指示するのも、航海術にも通じた副使の任務だったといってよい。
おそらく、この甲立古墳の被葬者は、船形埴輪を下賜されているので、このような国家的な船による外交、もしくは鉄の交易などにかかわった副使的な有力首長だったか、江の川の河口で、船の造船や修理、さらに水手の手配などで協力した在地の有力首長だった――のではないかという。
古代、このあたりは記事に何度も出てくる江の川とその支流が合流する地点で、交通の要衝となっていた。それを思えば、この被葬者の役割も理解できるし、その人物が日本海側における海運に深く関わっていたことを思えば、こんな山中の古墳に、海に因んだ船形埴輪があってもおかしくはないだろう。
ひっそりと山中に佇むこの古墳の被葬者は、ヤマトと日本海側、ひいては大陸との接点を持ち、それらの繋がりをうまく調整しながら、自身の力を増強させ、ヤマトからも重宝される独自の役割を果たしていたのかもしれない。まさに「境目」の古墳なのだ。
小笠原先生のコメント
全長77.5mという大型で、古墳時代前期の前方後円墳である甲立古墳は、江の川の上流域で新たに見つかった首長墳です。
優れた技術の家形埴輪が配置され、さらに船形埴輪が出土しています。前方後円墳に配された船形埴輪は、松阪市の宝塚1号墳、大分市の亀塚古墳など、ごく限られています。それだけに、大和政権と強いつながりをもち、亡くなったとき国家から船形埴輪が下賜されるような功績をもった有力首長だったのではないかと思います。その果たした役割は、江の川流域を掌握した有力首長であり、4世紀代に大和政権による朝鮮半島での鉄素材(鉄鋌)などを入手する交易に直接的にかかわりをもったか、あるいは鉄素材の交易のために頻繁に派遣される船に対し、江の川の河口で、船の修理、船を造船して提供、さらに水や食糧など諸物資を供給し、支援したのではないかと思い描きます。
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