徳川家康に仕え、初陣を飾る
やっと暖かさが感じられる今日この頃。春近し、ですね。春といえば、新年度、新学期。新しい生活と出会いが待っています。
今から446年前の天正4年2月7日(現在の暦で1576年3月7日)、見事な新生活のスタートを切った男がいた。その名は井伊直政。遠江井伊谷出身で、父が今川氏真から謀反の疑いを受けて殺されたあと母とともに亡命していたが、前年2月に徳川家康に召しだされ、近侍する事となった。そして、この日、遠江芝原の地で初陣を飾ったのだ。
『寛政重修諸家譜』には「東照宮遠江国芝原において武田勝頼と御対陣の時、初めて戦場に臨み、軍功あり」と簡単にしか触れられていないが、これは武田勝頼が高天神城に兵糧を補給しようと2万の軍勢で進攻して来たのに対し、家康以下8千が横須賀城に布陣(ちなみにこの時、真田昌幸がわずか1,000の兵で徳川軍の近くを堂々と進んで驚嘆されている)、続いて武田軍に掛川城を攻められるのを防ぐために芝原へ陣を移し対峙した時の事。
芝原というのは横須賀城の北西、現在の袋井市浅羽にあった柴村(柴之郷)の事ではないかと思われ、実際『井伊家伝記』には「柴原」の文字が使われている。家康は、高天神城の勝頼に対し、掛川・横須賀どちらが攻められてもすぐ駆け付けられる場所に陣取ったのだ。
直政はその柴村の本陣に詰めていたわけだが、『井伊~』で状況を補足すると、夜中就寝している家康の寝室の次の間で敵の忍者を討ち取った、とある。すんでのところで家康は忍者に寝首をかかれるところだったのだ。おそらく直政が次の間で不寝番をしているところに忍者が侵入し、格闘となったのだろう。
喜んだ家康は、直政の知行を300石から一気に10倍の3,000石へと引き上げたという。
ところでこの柴村、地理的には浜松城まで西に20km、そこからさらに故郷の井伊谷へ北に15kmという場所にある。いわば、直政にとってはホームグラウンド。
前年、彼が家康に出仕する際には井伊家当主の次郎法師とその母が小袖を二着仕立てて贈っているのだが、この次郎法師こそ直虎、そう、2017年大河ドラマの女主人公。
女性の身で井伊家再興に人生を懸けた直虎がいかに直政に期待していたか、この話から痛いほど伝わって来る。直虎は、井伊谷から直線距離で30kmほどのところで直政がたてた手柄を、直後に耳にして母とふたり大喜びで手を取り合ったのだろう。
直政にとってはまさに満点のご当地デビューで、井伊谷はきっと大盛り上がりだった事でしょうな。