世界的に先進国ほど宗教が衰退(すいたい)する現在、倫理道徳(りんりどうとく)の基盤も崩(くず)れている。日本人はこの危機をどう乗り越えるべきか、1年の始まりに安心したい。日本には紫式部(むらさきしきぶ)が初めて用いた言葉―大和魂という寛容(かんよう)な精神が備わっているのだから。
なぜ宗教の力が衰(おとろ)えたのか、先進国で進む宗教消滅
写真はイメージです。
宗教が力を失っているのは先進国に共通の現象である。ヨーロッパではキリスト教が力を失い、日曜日のミサに参列するのは高齢者ばかりになってきた。その結果、経営が成り立たず、売られる教会まで出ている。
日本でも、各宗教団体の信者数は、既成宗教でも、新宗教でも、バブルの時代を頂点にその後減り続けてきた。一人の神主がいくつもの神社を兼務するのは当たり前になり、葬儀の簡略化や墓じまいの増加で、寺院経営も難しくなってきた。
一時は隆盛(りゅうせい)を極めた新宗教も軒並み信者数を減らしている。関西では相当な力をもっていたPL教団などでは、教祖(きょうそ)が亡くなっても、数年にわたって新しい教祖が決まらない。夏の風物詩(ふうぶつし)だった「PL花火芸術」もコロナ禍(か)が過ぎても再開されていない。
戦後もっとも勢力を拡大した創価学会の場合にも、今回の総選挙において、それが支持する公明党は大幅に票と議席を減らした。それは、自民党との連立政権の過半数割れという事態に結びつき、政治の流動化、不安定化を呼んでいる。
なぜ先進国において宗教の力が衰え、「宗教消滅」という事態が生まれているのか。
それは、高度資本主義の時代になり、経済が物事の中心になったからでもあるが、大きいのは「都市化」の進展である。農業などの第1次産業が中心の社会では、多くの人たちが地域共同体の結束(けっそく)が強い地方に住んでいた。それが、戦後に先進国で共通に起こった高度な経済成長によって、産業構造が転換し、都市部での労働力が求められ、地方から都市への大規模な人口移動が起こった。
それを日本では新宗教が吸収し、大教団が生まれたのだが、信者となった人々が安定した生活ができるようになると、新宗教は必要とされなくなる。お隣の韓国では、新宗教の役割を土着(どちゃく)のシャーマニズムと融合したキリスト教が果たした。韓国でも、キリスト教の伸びはすでに頭打ちである。
中南米でも経済発展による都市化が進み、それにともなってカトリックの信仰は衰え、ペンテコステ派や福音(ふくいん)派にとってかわられようとしている。これも、大きく見れば一時期のことで、やがて日本の新宗教のように衰退していくであろう。そうした国も、やがては宗教消滅の方向にむかっていくのである。
世界宗教でも進む信者離れ、倫理道徳の基盤を喪失(そうしつ)した現在
「世界宗教」は、今から2500年前に仏教が誕生したところからはじまる。2000年前にはキリスト教が、1400年前にはイスラム教が出現し、この二つの宗教が、現在では世界第1位と第2位の宗教として君臨している。
世界宗教は政治や経済の分野にも大きな影響を与え、何より、それぞれの宗教の信者の精神生活を支えてきた。倫理道徳の基盤を求めるとしたら、それは宗教に求めるしかない。そうした時代が長く続いてきたのである。
宗教の消滅は、倫理道徳の基盤を喪失することにつながる。いったい何が正しいことで、何が間違っていることなのか、私たちはその基準をどこに求めていいのか、それに迷うようになってきた。しかも、世界は混沌(こんとん)とし、ネット社会の発展で、膨大(ぼうだい)な偽(にせ)情報があふれるようになってきた。マスメディアもネットも信用できないとするなら、私たちはどうやって正しい情報を手に入れたらよいのか。それが怪(あや)しくなってきたのだ。
では、こうした世界において、私たちはいかにして社会生活の基盤を見出し、偽情報にまどわされなくなれるのだろうか。
人生100年時代こそ「大和魂」、実生活上の知恵の涵養(かんよう)こそ大切
源氏物語「少女」【注】 鎌倉時代・13世紀 重要文化財 東京国立博物館所蔵/ColBase
【注】
[原文]なほ、才をもととしてこそ、やまとたましひ(大和魂)の世に用ゐらるる方も強うはべらめ。
[訳文]やはり学問が第一でございます。日本魂(やまとたましい)をいかに活かせて使うかは学問の根底があってできることと存じます。(与謝野晶子訳『源氏物語』乙女より 原文ママ)
一つ、手引きになるのが、紫式部による『源氏物語』に出てくる「大和魂」である。
大和魂といえば、一般に、勇猛(ゆうもう)で潔(いさぎ)よい日本民族固有の精神ととらえられており、光源氏の恋愛遍歴(へんれき)を描いた『源氏物語』とは似つかわしくないと思われるかもしれない。
しかし、『源氏物語』における大和魂は、「漢才(かんざい・からざえ)すなわち学問(漢学)上の知識に対して、実生活上の知恵・才能」(『広辞苑』)を意味する。中国の学問を深く学び、巧(たく)みに漢文や漢詩が作れたからといって、生活に役立つ知恵や才能がなければ、意味をなさないというわけである。
さまざまな知識を大量にため込んで、才気煥発(さいきかんぱつ)であったとしても、真実を見極める知恵がなければ、本当の意味で大和魂を発揮することなどできない。こうした大和魂ということばの用法は、エリート主義を批判する「反知性主義(はんちせいしゅぎ)」本来の意味に近い。
江戸時代以降になると、国学(こくがく)の分野で勇猛で潔いという意味での大和魂が強調されるようになっていくが、それでも国学の最重要人物であった本居宣長(もとおりのりなが)は、町医者を続けながら学問をした市井(しせい)の人であった。決して武士のような社会的エリートではなかった。それでも、多くの弟子を育て、後世に多大な影響を与えたのである。
紫式部のことは、2024年の大河ドラマ『光る君へ』で取り上げられたが、そこでは若い頃から漢学にも通じた才能ある女性として描かれていた。そうした背景があるからこそ、『源氏物語』に登場する大和魂ということばが生彩(せいさい)を放つのである。
これはしごく当たり前のことにもなるが、まずは、刺激的な情報が飛び込んできたとき、それをいったんは疑い、その典拠(てんきょ)や根拠を改(あらた)めて確かめていく必要があ。
それには、紫式部のように広範な分野にわたる教養と、物事をしっかりととらえる分析力が要(い)る。それを養うには、時間もかかるし、努力も欠かせない。
そんなのはとても無理だと諦めてしまう人もいるだろうが、幸い、平均寿命は伸び、私たちはいつでも学ぶことに多くの時間を割(さ)けるようになってきた。
その際に、一つ試みて価値があるのは、重要と思われる一人の人物の書いたものを、思想家でも文学者でもいい、最初から終わり(あるいは最新作)まで、順に読んでいく作業である。一個人において思索がいかに展開し、成熟(せいじゅく)していくのか。それを知ることが、宗教に頼らず、大和魂を涵養し、生きる上での基盤を見出していくことにもっとも役立つはずなのである。