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失われた30年、打破の条件~豊かな自然と歴史を誇る文化大国日本の可能性

90年初頭から続く日本経済の停滞をして「失われた30年」と呼ばれるが、いつになれば国民はこのどん底から脱却できるのか。日本に存在しなかった「リース」を根付かせ、世界に冠たる多角的な金融業を発展させた稀有(けう)の経営者であり、プロ野球オリックス・バファローズの前オーナーで長期低迷から再び日本一へ導いた宮内義彦氏とパブリックリレーションズの第一人者、井之上喬氏が「来るべき」日本社会の未来、その進運を議論する。
取材・文◉山﨑 実 写真◉平山訓生 撮影協力◉オリックス株式会社


バブル崩壊を起こした、成功から転落の原因

井之上 いまや、我が国においてなくてはならないリース業を立ち上げ、不動の地位へと確立し、また、プロ野球界でもオリックス・バファローズの球団オーナーとして34年間務(つと)められた、宮内さんですが、バブル経済崩壊以降、顕著(けんちょ)に落ち込みを見せた時期に、諦(あきら)めない経営でオリックスを世界にも類(るい)を見ない多角的金融サービス企業へ躍進(やくしん)させたその慧眼(けいがん)についてお伺(うかが)いしたいと思います。
 私の専門であるパブリック・リレーションズ(以下、「PR」と略記)では自己修正(じこしゅうせい)能力が必要とされます。私のPR研究における問題意識では、いまだに失われた30年──日本社会における組織的失敗に対する総括(そうかつ)はできていないと言わざるを得ません。
宮内 1980年代、日本経済は一番のピークだったと思うのですが、その成功から転落に至(いた)るまでの要因は二つあったと考えます。
 一つは、日本のもの作りが素晴らしかったことです。具体的には工業技術が非常に優秀で大量にしかも、廉価(れんか)で良い製品を世界に売り出すことができました。日本が「世界の工場」として成功したその根底には、敗戦後の復興(ふっこう)から経済を中心にして日本人が、世界で一番猛烈(もうれつ)に働いたことにあると思います。それで日本経済は飛躍的な成長を遂(と)げたのですが、今度はアジア諸国が工業化を進めることで、次第に日本がもの作り競争から没落(ぼつらく)しつつあったのが当時の日本だったと思います。その状況でバブル経済が始まりました。不動産や株式などの資産価格が実体経済とかけ離れて高騰(こうとう)し続けたわけです。その意味では、85年9月のプラザ合意は起点だと思います。行き過ぎた景気刺激策によってバブル経済を産んだことが一番大きな原因ではないでしょうか。そして、はっと気がついたら、日本の製造業における優位(ゆうい)性も失われている上に、大変なバブルだと気づいたわけです。政府は急いでバブルを潰(つぶ)しましたが、これが二つ目の失敗だと思います。その結果大混乱になったことはご存知の通りです。

度重なる経済政策の失敗と産業構造転換の乗り遅れ

宮内義彦さん
みやうち・よしひこ◉1935年神戸市生まれ。関西学院大学商学部卒業。ワシントン大学経営学部大学院でMBA取得後、日綿実業(現双日)入社。64年オリエントリース(現オリックス)入社。70年取締役、80年代表取締役社長・グループCEO、2000年代表取締役会長・グループCEOを経て、14年シニア・チェアマン就任、現在に至る。総合規制改革会議議長など数々の要職を歴任。新日本フィルハーモニー交響楽団理事長などを兼務。プロ野球球団オリックス・バファローズのオーナーとして34年間球団経営も行い、リーグ優勝4回、日本一2回に輝く。著書に『“明日” を追う【私の履歴書】』(日本経済新聞出版社)、『諦めないオーナー プロ野球改革挑戦記』(日経BP)など多数。

宮内 私はバブル崩壊時の経済政策は失敗したと思っています。90年に、米ソ冷戦構造が終焉(しゅうえん)し、世界が一つの資本主義体制になると、日本の製造業における優位性がアジア諸国にシフトしていきました。こうした世界経済における構造的な面と政策的な面で両方の打撃を受けて、呆然(ぼうぜん)としたまま今日にまで至ったと考えております。失われた10年が30年間策(さく)のないままさらに傷を大きくしたと思うのです。もちろん政策運営面での失敗もあったと思います。かつてアメリカやヨーロッパから日本は世界の工場の看板を奪(うば)い取ってきました。このときはアメリカが呆然とし、80年代、欧米ともに苦しみ抜き、レーガン(レーガノミクス)やサッチャー(サッチャリズム)が出て、構造改革を断行したわけです。それに対して90年代の日本はそれができませんでした。結局、アメリカは生きる道として、今日のGAFAM(グーグル・ アップル・フェイスブック・ アマゾン ・マイクロソフトなどのIT企業大手)を生み出したわけです。製造業から情報産業へシフトし、世界を制覇(せいは)する製品やサービスを提供し続けたわけです。しかし、日本は30年経(た)っても何も作れてないのだから競争力も失われ続けてしまった。これが一番の問題だと思います。
井之上 宮内さんは脱工業化社会、要するに工業化から知識集約(ちしきしゅうやく)型社会への産業構造の転換に乗り遅れたという認識だったと思うのですが、日本社会は80年代までの経済における成功体験が、日本の足かせとなったとお考えでしょうか。
宮内 変化に適応(てきおう)できなかったという意味ではそうです。一つは日本では構造改革では無策でした。また旧態依然(きゅうたいいぜん)として製造業主体の経済でした。
 しかし日本経済の中心はすでにサービス業へと構造変化していました。バブル崩壊以前までは成功していたわけですから。この間にいろんな規制(きせい)が組み込まれた社会システムができあがっていたので、それは既得権益(きとくけんえき)になっておりました。これでは、自らの痛みをともなう規制改革などはできません。
 それからもう一つは、この時期に日本の大企業は改革を進められなかったことが大きいですね。ガバナンス不全から、生産性は下がったまま停滞(ていたい)をもたらし、マクロ経済、企業運営双方が複雑骨折みたいなことになって今日まで至ったのかなと思います。

大混乱時に躍進した理由、規制緩和の壁──既得権益

井之上 喬さん
いのうえ・たかし◉日本のパブリック・リレーションズの第一人者。1944年、旧満州国大連市生まれ。「自己修正モデル」の提唱者。(株)井之上パブリックリレーションズ設立代表取締役会長。早稲田大学大学院公共経営研究科博士後期課程終了、同大学客員教授(2004-08)、京都大学経営管理大学院特命教授(12-)。北海道大学大学院経済学研究院客員教授(22-)、(一社)日本パブリックリレーションズ学会代表理事・会長、博士(公共経営)。

井之上 バブル崩壊で日本企業が停滞する中、オリックスは業績を上げましたが、その理由とは何だったのでしょうか。
宮内 バブル崩壊の後始末に多くの企業が7~8年苦しみ抜いたと思いますが、私たちは、91年ぐらいからすでに不良債権(ふりょうさいけん)の償却(しょうきゃく)を始めていました。みんなが償却を始めたときにはもう殆(ほとん)ど終わっていたのです。外部から見ると、えらく元気がいいな、と見られたところがあると思います。
 96年に住専(じゅうせん)国会がありましたが、住宅金融会社に確か6900億円もの公的資金をつぎ込むという話で、国会が空転(くうてん)しました。後で考えたら不良債権は膨(ふく)らみ100兆以上損しているわけです。この時代、日本国自身が経済に対して大いなる無理解をしていたのだと思います。
 98年9月、私たちがニューヨーク証券取引所へ上場を果たしたとき、「日本の金融市場が大混乱しているのに、日本の金融業がなぜ?」とアメリカの多くのメディアからの取材で聞かれましたが、「日本にも元気な金融業はある」と言い続けました。日本の内輪(うちわ)のインナーサークルの外部にいた私たちにとって不良債権処理は過去のことだったからです。
井之上 日本社会とはハイコンテクストカルチャー、いわゆる「空気を読み合う」暗黙知(あんもくち)文化です。島国全体が家族みたいに互助(ごじょ)的なところがある一方、それが悪い方向に振れると、忖度(そんたく)や同調圧力(どうちょうあつりょく)がかかります。何か新しいチャレンジを試みると、必ず逆風を受けるわけです。
 政府委員をやって規制改革への取り組みを始めたときも特にそう感じたのではないでしょうか。
宮内 出る杭(くい)は打たれるという、日本社会には強烈な同調圧力ありますね。問題意識をもって特に反対する立場で議論を始めるには、実に勇気がいりますね。
井之上 宮内さんは9歳のときに敗戦を迎え、従来の制度は否定され、GHQによって民主的な制度改革がなされました。肌(はだ)感覚として国家や役人、制度が、外圧(がいあつ)で「一夜で価値観が変わる」ことに対して不審(ふしん)感を抱(いだ)かれたのではないですか。
宮内 これは私だけでなく、同世代はみなそういう感じ方をしていたと思います。昨日まで「撃(う)ちてし止(や)まん」と言っていたのに、夏休み明けには、「マッカーサー元帥(げんすい)様」へ変わりましたから。薄かった教科書のほとんどが黒塗りにさせられました。
井之上 本当に自分たちで変えられない日本の宿痾(しゅくあ)のような体験をされたわけですが、敗戦時と同様の失敗の記憶がバブル崩壊後の無策と進まない規制改革だったと考えますが、長年にわたる政府委員で座長や議長を務められて気づいた大きな課題とは何だったのでしょうか。
宮内 戦後の日本は行政主導で80年代まではすごく成功したわけです。この間にいろんな制度ができていました。よく見ると既得権益になっていたのです。90年代はその制度が市場経済の成長への壁(かべ)となったわけですが、規制改革によって食べていけなくなる人たちは死に物狂いで抵抗(ていこう)します。これでは立ち行きません。
井之上 大都市圏での容積率(ようせきりつ)緩和や金融機関の資金調達における多様化など進めましたが、教育、少子化、医療、雇用、農業などの大きな宿題を残したというわけですね。
宮内 規制改革するにも余りにも既得権益でがんじがらめにされていましたので、重要な制度改革は挫折(ざせつ)しました。本来、改革を断行(だんこう)するのが政治であり、政治家の仕事です。しかし、その政治家が族(ぞく)議員として制度の上に立ちはだかります。私たち民間が「これはおかしい」と発言しても、てこでも動きません。失われた30年とは、構造改革できなかった30年と同意です。

民間の活力と公正な分配、失われた30年を乗り越える

井之上 現在の少子高齢社会における日本社会の課題とは何で、またそのために必要なことをお聞かせください。
宮内 日本における一番の社会課題は二つです。、一つは、労働人口減少の問題。もう一つは、労働生産性の問題です。人口が減る分だけ、一人当たりの生産性をいかに効率(こうりつ)的に上げるかが課題です。この二つはまだ未解決ですね。
 喫緊(きっきん)の少子化対策としては、仮(かり)に今日明日で子どもが増えてもすぐに労働人口になりませんので減る分だけ外国から来ていただかないとGDPは上がりません。生産性を上げるには、民間の生産性が最大化できるように企業の競争を阻(はば)む既得権益を潰すことが大切だと思います。そのためには、やはり規制改革の断行と、「所得(しょとく)の再分配(さいぶんぱい)」をしっかりと行える政治が必要です。生産面では市場経済が一番効率良いですから、それを活性化させ富(とみ)を増やし、その富を納得できる形にして分配する、ということが求められます。各国ともそうですが、日本も分配がうまくいっていると思えません。具体的には社会的格差(かくさ)からの不満層を増やす現在の税制と社会保障です。生産メカニズムは企業努力で上げるべきですが、分配は、強権発動できる政治の役目です。戦後、財産税があり税率は累進(るいしん)性で課税価格に応じて最大90%もありました。
 少子化対策を経済問題と位置付け長期成長の観点から話せば、例えばの話ですが、第一子誕生で無条件に100万、第二子で300万、第三子で1000万をご家族に支援(しえん)するだけでも着実に増えると思うのです。彼らが大人になれば、税金を次世代のために納(おさ)めます。本当はお金で解決できることが多くあると思うのです。政府は少子化対策国債(こくさい)でも出せばいいと思うのです。
井之上 それは素晴らしいアイデアですね。かつて高橋是清(たかはしこれきよ)蔵相は国家の存亡をかけた日露戦争の戦費調達を外債でまかない、完済は1986年。超長期の80年償還です。本気でやる覚悟(かくご)さえあれば、できるのですね。現在日本が抱える少子化問題も、まさに国家の存亡をかけた深刻な問題ですが、抜本的な改革が必要ですね。
宮内 あと、社会保障について、時代の劇的(げきてき)な変化についてこられない一部の中小企業は淘汰(とうた)されざるを得ないとも考えております。一方で、失業者に対しては厚(あつ)く救済する。労働者へのセーフティーネットを議論するべきところを、中小企業の救済へと問題をすり替(か)えてしまう。それにより地方銀行などにそのしわ寄せがおよぶわけです。
井之上 PRの視点で見ると、日本は外部環境の変化への対応能力に欠けていると言わざるを得ません。
 最後に、宮内さんにとって人生100年時代の後半生で大切にしていることをお教えいただけますか。
宮内 まず好奇心(こうきしん)を失わないことが非常に大事だと思います。世の中の劇的な変化に対してちょっとでも追いつこうと気持ちがあるだけで、日々新たになるのではないかと思います。二つ目は、積極的に外に出ること。歩いて足腰を鍛えるだけでも健康を維持につながりますよね。三つ目は、やはり楽しく生きることですね。楽しくないと気持ちが萎(な)えます。
井之上 これからもご活躍していただきたく思います。ありがとうございます。

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