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里崎智也流「逆境の乗り越え方」(前編)|元世界一の捕手が悩めるビジネスマンに贈る言葉

千葉ロッテマリーンズで正捕手として2度の日本一。2006年の第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)でも大活躍し、世界一の立役者となった里崎智也さんだが、現役時代は何度も大きなケガに見舞われた。そのたびに不屈の精神で立ち直ってきた里崎さんが、コロナ禍の中で苦境に立たされているビジネスマンたちに向けて、その乗り越え方をアドバイスする。

1秒たりとも無駄にできない

―里崎さんはロッテに入団して1年目に、左尺骨茎状突起(ひだりしゃっこつけいじょうとっき、左手首)を骨折します。

 とても痛いんですが、病院に行っても骨折だとはわからなかったんです。それで2軍の試合に出続けた。あとから聞くと、もうすぐ1軍に上がれるところにきていて、首脳陣も無理してでも、試合に出させようと考えていたらしい。でも、痛くて仕方ない。周りからは、「里崎はサボろうとして三味(しゃみ)を弾いている(ごまかしている)」と信用してくれないんです(笑)

 どの病院に行っても、どこも悪くないと言われる。でも、痛みはまったく治まらない。1カ月くらい、そういう状態が続いて、4軒目の病院を訪ねた時やっと、骨折していることが判明した。折れているのは尺骨という部分だったんですが、わかりにくい場所にあって、レントゲンを撮る角度を変えて、やっと見つかった。正直、ホッとしました。オレがどれだけ痛かったのか、これで証明できると。

当時の強烈な痛みと戦いながらプレーしていた様子を話す里崎さん。

―もうすぐ1軍という時にケガ。普段は陽気な里崎さんも、さすがに気持ちが落ち込んだのでは?

 首脳陣がすぐにでも1軍に上げようとしていたことは知りませんでしたが、ケガをする前は2軍でものすごく調子がよかった。自身、まもなく1軍に上げてもらえるのではという期待は持っていました。そんな時に骨折ですから、ショックがないといえばウソになりますが、仕方がないという気持ちでした。そもそも、それどころじゃなかった。本当にクソ痛かったんですから。

―ビジネスマンがそうした逆境に置かれた時、どうすればいいのでしょうか? 失敗したらシュンとなってしまう人が多いような気がしますが。

 まず言いたいのは、シュンとなるヒマなんかあるんですかということです。時が止まってくれればいいですよ。でも、実際には放っておいても、時はどんどん刻まれていく。どう過ごしても、1秒は1秒なんです。

 ボクら野球選手は毎日、試験を受けているようなもの。特に2軍選手なんて、首脳陣が見守る中で結果を出して、声がかかるようにしなければならない。そうした中で勝ち抜いて1軍へのキップをもらう。そして1軍に上がれば、そこでまた競争がある。ちょっとした油断もしているヒマはないんです。ボクらはそんなところで人生が180度、変わってしまう。1秒たりとも無駄にできないんです。ケガをした時も、自分ができることを精一杯やるだけでした。

 それはビジネスマンだって一緒でしょう。クヨクヨしていたって始まらない。どうやって挽回するかを考えながら、すぐに次のことに取り組むべきです。あえて厳しい言い方をさせてもらいますが、シュンとしていたら、あなたのビジネスマン人生は終わるだけですよ。

みんな、まぐれから始まる

まぐれの積み重ねが実績になると力説。

―里崎さんは現役時代、チャンスに強いバッターとして知られていました。帝京大学時代も出場2試合目でホームランを放ち、4試合連続ホームランの首都大学リーグのタイ記録を打ち立てた。まだ正捕手として定着していない2003年には、福岡ダイエーホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)戦で代打に立ち、決勝適時三塁打を放った。ここぞという時に活躍された印象があります。

 大学野球のデビュー戦で代打で出て、バットを振ったら、センター前にポトリと落ちた。初打席初安打のはずでした。ところが、記録はセンターゴロ。センターが捕れるか捕れないかの微妙なところに飛んだので、ファーストランナーがセカンドでアウトになってしまった。だから、初打席はチャンスをものにできていないんです

 それはともかく、記録を残している選手というのは、チャンスに強いのではない。チャンスをつかんでいるだけなんです。そして、つかむのはたまたまのめぐりあわせ。2003年のダイエー戦はロッテが代打を送ったら、向こうがピッチャーを代えて、そこでボクに出番がまわってきた。つまり、代打の代打。チャンスがめぐってきたこと自体、奇跡的なんです。

 実はその前日、祖母が亡くなっていた。底知れぬ不思議なパワーをもらったんじゃないかと思います。でも、なぜチャンスをつかめたかと聞かれれば、まぐれとしか答えようがありません。

―ビジネスの世界でも、それは同じでしょうか。

 どんな世界でも、最初はみんな、まぐれだと思いますよ。有名なビジネスマンだって、出発点はまぐれから始まっることが多いんじゃないでしょうか。まぐれの積み重ねが実績になって、自信につながっていくことも多い。こうしたから成功したなんていうのも、あとづけの根拠だと思いますよ(笑)

 ただ、まぐれが積み重なっていくうちに、どうしたらうまくいくかが、だんだんわかってくる。その気づきが大切なのです。そうして理解を深めていくことが成長といえるのだと思います。

―けれど、チャンスをつかんで正捕手確実といわれていた里崎さんに、たいへんなピンチが訪れる。プロ入り6年目の2004年4月、左ひざの半月板を損傷してしまったのだ。

 半月板の8割を除去する手術を受けました。それでも1か月後には試合に出るようになっていました。この年から監督に就いたボビー・バレンタインがボクを使おうとしてくれたんです。日本人の監督ならたぶん、からだが完璧になるまで使わなかったでしょう。

 とはいっても、半端じゃない痛さです。毎週、病院に行って、ひざにたまっている水を抜く。骨片混じりの血まみれの水です。病院の先生も1試合出たら1試合休ませてくださいと球団に伝えていました。

―結局、そのシーズンは61試合に出場。2試合に1試合でもずっと出続けたことが、翌シーズンの正捕手の座につながりました。

 そういう意味では、いい上司に恵まれましたね。ボビーがボクを必要としてくれたことが大きかった。こちらも、その思いになんとか応えようとして踏ん張った。普通の人なら家を出ることすらできないほどの痛みでしたが、他人には言わなかった。大体、世の中の80%は気合いと本能でなんとかなるものなんです(笑)。(後編につづく)

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里崎 智也

さとざき・ともや 1976年、徳島県出身。 帝京大学野球部を経て、1999年千葉ロッテマリーンズ入団。2度の日本一。 2006年の第1回WBCに正捕手として出場。打率.409を記録し、日本の世界一に貢献。 2014年のシーズンで引退後は野球解説者、コメンテーター、YouTuberとマルチな活動をしている。 著書に里崎智也氏初の新書『シンプル思考』(集英社新書)など。

  1. 里崎智也流「逆境の乗り越え方」(後編)|元世界一の捕手が悩めるビジネスマンに贈る言葉

  2. 里崎智也流「逆境の乗り越え方」(前編)|元世界一の捕手が悩めるビジネスマンに贈る言葉

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