大君(おほきみ)の 遠(とほ)の朝廷(みかど)と あり通(がよ)ふ
島門(しまと)を見れば 神代(かみよ)し思ほゆ
(柿本人麻呂 巻3・三〇四)■訳)
大君の 遠の朝廷である大宰府に 通い続ける
海峡を見ると 神代の昔が思い出される
旅人・憶良ら筑紫歌壇の文化が花開いた「遠の朝廷」
梅花の歌の序文が新元号の典拠となったことで、「令和の聖地」と呼ばれるようになった太宰府市。平安時代に菅原道真(すがわらのみちざね)公が左遷された先として知られるが、実はそのずっと前から国際都市として機能していた歴史を持つ。
およそ1300年前、朝廷は本格的な国づくりを進めるなかで、大陸に近い筑紫(つくし)国(福岡県一帯)に地方最大規模の役所「大宰府」を置いた。その役割は九州の管轄や外国の侵入に備える軍事防衛、対外交流も担っており、「遠の朝廷」と呼ばれるほど重要な行政機関だった。都からも多くの人材が派遣され、さまざまな要職に就いている。
有名な『あをによし 奈良の都は咲く花の にほふがごとく今盛りなり』(巻3・三二八)は、ここ大宰府で詠まれた歌。平城京から戻った小野老(おののおゆ)が、都の様子を知りたがった役人などのために詠んだとされている。
さて、大伴旅人(おおとものたびと)が妻や後に万葉集を編纂する息子の家持(やかもち)も連れて、大宰府に赴任してきたのは727年頃。大陸との交流の拠点でもあった大宰府には、諸外国の文物や先進の情報が真っ先に届いていたため、それらを手本に日本独自の新しい文化が生まれていった。
それを象徴するのが旅人邸で開催された「梅花の宴」である。唐から持ち込まれたばかりの梅を愛でながら歌を詠むという知的で洒落た宴には、山上憶良(やまのうえのおくら)や沙弥満誓(しゃみまんぜい)などが出席。彼らをはじめ大宰府に滞在して万葉集に歌を残した著名な歌人たちは、後に万葉集筑紫歌壇と名付けられた。
大宰府政庁跡に隣接する大宰府展示館では、華やかな宴の様子を模型で見ることができる。宴は旅人邸で催されたが、その推定地は坂本八幡神社や大宰府展示館横(月山東地区官衙跡)など複数あり、はっきりとは分かっていない。
現在、公園として整備されている大宰府政庁跡は、遮るもののない広々とした敷地で、緑が豊かに香り立つ心地よい場所となっている。山上憶良は妻を亡くして悲しみに暮れる大伴旅人の心情を憂い、『大野山霧立ち渡る わが嘆く 息(おき)その風に 霧立ち渡る』(巻5・七九九)との歌を詠んでいる。大野山(四王寺山)とは、政庁跡の石碑の背後に稜線を描く山のこと。この地には、旅人や憶良が見た風景が今も存在しているのだ。
「万葉集には筑紫で詠まれた歌が約320首収められ、太宰府には歌枕の史跡も多く残っています。ぜひ現地で往時の雰囲気を感じてください」と太宰府市教育委員会文化財課・井上信正さん。近くには旅人が歌に詠んだ二日市温泉もある。万葉歌人も浴した温泉で、旅を締めくくるのも贅沢だ。
※「一個人」2019年7月号より抜粋