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初お目見えや初舞台はかけがえのない思い出【宗教学からみる歌舞伎 第2回】

雑誌『一個人』2024年9月号の連載記事を本サイトにも掲載しております。内容は雑誌発行当時のものです。


前回は襲名披露興行のことを取り上げた。6月大歌舞伎は中村萬壽(まんじゅ)・時蔵(ときぞう)の襲名披露興行であるとともに、時蔵の息子の五代目中村梅枝(ばいし)、中村獅童(しどう)の息子である初代中村陽喜(はるき)、初代中村夏幹(なつき)の「初舞台」でもあった。

初舞台の前には、歌舞伎役者の子どもが本名で舞台にあがる「初お目見え」がある。初お目見えと初舞台は、歌舞伎役者が経験する最初の通過儀礼(※)である。

(※)通過儀礼…人々の生涯における誕生・成人・結婚・死亡といった節目を通過する際に行なわれる儀礼のこと。成人式では、生と死が隣り合わせである祭礼を行ない、社会的に一人前として認められる。

6月の公演ではハプニングがあった。梅枝は8歳ということもあり、闊達(かったつ)な演技を見せたが、陽喜は6歳
で、夏幹になるとわずか3歳である。初舞台の口上(こうじょう)では、親や先輩の役者が、その子をさして、「海の物とも山の物ともわかりませんが」と断りを入れることが多いが、まさにそのような年齢である。

ハプニングと言うのは、6歳の陽喜の方で、口上で襲名した名前を名乗るべきところ、「渡辺綱(わたなべのつな)」にございます」と役名を口にしてしまったのである。

私が観劇したのは9日目のことで、その日だけの出来事だったのであろう。観客の方は唖然としていたが、親の獅童が耳打ちしたので、「中村陽喜にございます」と言い直し、口上は無事に終了した。初舞台にふさわしくなんとも微笑ましい場面だった。

初お目見えや初舞台に接するというのは、観客の側にとっても特別な体験で、忘れられないものになる。私がよく覚えている初舞台が二つある。一つは、2000年4月に現在の二代目尾上右近(おのうえうこん)が、本名の岡村研佑(けんすけ)を名乗り「舞鶴雪月花(ぶかくせつげっか)」の松虫(まつむし)をつとめたものである。もう一つ
はその翌年のやはり4月、現在の初代中村鷹之資(たかのすけ)が、初代中村大(だい)を名乗って「石橋(しゃっきょう)」の文殊菩薩(もんじゅぼさつ)をつとめたものである。

右近の曾祖父は、戦前から戦後にかけて歌舞伎界の中心にあった六代目尾上菊五郎(きくごろう)で、祖父は六代目清元延寿太夫(きよもとえんじゅだゆう)と俳優の鶴田浩二(つるたこうじ)、父は七代目延寿太夫である。右近は、当時は勘九郎(かんくろう)を名乗っていた十八代目中村勘三郎(かんざぶろう)に手を引かれて花道に登場した。いったいこの子は将来どのような役者になるのだろうか、そもそも清元の家に生まれたわけだから、役者を続けるのだろうかと、観客席で私はそんなことを考えていた。今、右近の舞台に接すると、いつもそのときの幼い姿を思い出す。

鷹之資は、1999年4月11日の生まれなので、初舞台をつとめるなかで2歳の誕生日を迎えた。1歳で初めて舞台に立ったわけだ。私が見たときには、すでに2歳になっていたが、父親の五代目中村富十郎(とみじゅうろう)に抱かれながら、立派に見得を切っていた。これは将来大物になる。そう思わせる初舞台で、やはり鷹之資の舞台を見るたびに、それを思い出す。

初お目見えや初舞台の思い出は、観客にとってかけがえのないものだ。だからこそ、初舞台を見逃のがしてはならないのだ。

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島田裕巳

1953年東京生まれ。宗教学者・作家。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了(宗教学)。『なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか』『[増補版]神道はなぜ教えがないのか』『葬式は、要らない』など著書多数。

  1. 初お目見えや初舞台はかけがえのない思い出【宗教学からみる歌舞伎 第2回】

  2. 華やかな襲名披露は役者にとっての通過儀礼【宗教学からみる歌舞伎 第1回】

  3. 【年頭批評】大和魂(やまとだましい)のゆくえ——武士道とはまったく異(こと)なる本来あるべき「日本の心」のすすめ

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