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線虫が世界を変える——がん検診の画期的な「生物診断」

鋭敏な嗅覚を持つ線虫「C.elegans(シー・エレガンス)」。体長わずか1ミリの小さなこの線虫が、人の尿からがんの匂いを嗅ぎ分ける

 我が国の死因の第一位は三大成人病の一つ「がん」であり、がんの罹患率は約二人に一人(厚労省)といわれる。私たちの命を守るためのがんの早期発見は、治療による寛解の可能性を高めるばかりか、人生100年時代を健康で豊かに暮らすために大切なものだ。尿1滴で、しかも「線虫(せんちゅう)」の嗅覚によって簡単に、早くがんの可能性をつきとめる今話題の「N-NOSE(エヌ・ノーズ)」とは何か、取材をした。
(取材・文◉小林 明 dylan-adachi,Inc 写真◉HIROTSUバイオサイエンス)


がんの一次スクリーニングを促進し早期発見に役立てる

 「がん検診は線虫(せんちゅう)の仕事」
 こう語るのは、株式会社HIROTSUバイオサイエンス代表取締役の広津崇亮氏(以下、「広津氏」と略記)だ。線虫という生物が、がん患者と健常者の尿の匂いの違いを嗅ぎ分けることに着目し、それを活用したがん検査「N-NOSE」を開発・実用化した理学博士である。

「線虫とは体長約1mmの生物です。私は大学(東京大学大学院理学系研究科)の研究生だった頃、指導教官から線虫の嗅覚研究はおもしろいとの教示を受けました。そこで線虫研究生の第1号に立候補したのです」(広津氏)

 卒業後、いったんは民間企業に就職したものの、研究への熱意は冷めやらず東京大学(博士課程)に復学。線虫の「嗅覚」へと関心が進んで論文を発表したところ、平成12(2000)年3月、世界的に最も有力な総合科学学術雑誌であるイギリスの『ネイチャー』に掲載され、注目を浴びた。その後、京都大学・九州大学へと籍を移し、さらに研究を続行した。「線虫をがん検診に役立てる」ことを目的に、株式会社HIROTSUバイオサイエンスを起業したのは、平成28(2016)年のことだ。
 令和2(2020)年には検査法「N-NOSE」の実用化に成功し、今はがん検診の最前線で活躍している。

「1滴の尿からがん患者か否かを嗅ぎ分ける線虫の嗅覚は、奇跡といって良いでしょう。これによって、ステージ0〜1のがんの早期発見が容易となるのです」(広津氏)

がん患者の尿には線虫は、近寄っていく
健常者の尿からは線虫は、遠ざかる

 一方、日本のがん検診の受診率は3〜4割程度と、決して高くない。

「そうした現状を鑑みると、『N-NOSE』はがんの一次スクリーニングに有効な検査法として、大きな可能性を持っています」(広津氏)

 がんの一次スクリーニングについて説明しよう。厚生労働省は胃がん・肺がん・大腸がん・乳がん・子宮頸がんの5つに対し、定期検診を受けることを推奨している。だが、がん種によって検査法が異なることなどが、受診率アップの弊害となっている。そこに簡便かつ低コスト、さらに1回の検査で済む方法が登場すれば、早期発見への道は開ける。その糸口こそが家庭で手軽に検査できる「N-NOSE」というわけだ。

「がん検診に『行動変容』(人の行動が変わること)を喚起したいのです。煩雑で時間も要するから二の足を踏むわけで、『簡単にできる方法もある』と浸透すれば、それだけ早期発見のチャンスは広がります」(広津氏)

 行動変容とは、無関心期→関心期→準備期→実行期→維持期の5段階に分かれるという。がん検診に関していえば実行期の段階にあるものの、受診率の低さからみれば実質的にまだ準備期の域を出ていないといえよう。
 それを完全に実行期に導き、さらに維持期へと進めるのが広津氏の役目だ。

「将来的には若い研究者たちがより研究に専念できる環境を整えたいと思い、大学を創設したいと考えていますそこまで到達できて、初めて維持期に入ったといえるでしょう。先はまだまだ長いです」(広津氏)

科学的には100%「絶対はありえない」

順風満帆にみえる「N-NOSE」には、批判もある。例えば、以下のような声があげられた。「精度が100%でないと意味がない。リスクが高いと出た時の精神的ダメージが大きすぎる」、「またがん種、部位を特定できない点で意味がない」、「一次クリーニング検査を謳っているが、陽性反応が出てから、再度精密検査をする必要があるのでお金がかかり、精神的にも不安な時間が続く」などだ。
 ただ、こうした批判は、冷静に考えれば、質問者の前提知識が無いままの極端な難クセによる「炎上談義」が拡散してしまうことにもなる。そもそも科学的に精度100%の検査などは、N-NOSEを含めたがん検査を問わず、いかなる検査においてもありえないだろうし、N-NOSEには「がん種の特定はできない」とも表記されている。さらに、一次スクリーニング検査によるがんリスク検査である以上、早期がんリスクを発見できれば、精密検査を受けるのは普通に、患者として当たり前ではないだろうか。
 がんは、自覚症状がないうちに検診を受け早期発見を行い、早期治療していくことで守れる命を守ることができる可能性が高いということから、N-NOSEの有益性が、多くの医療機関の医師たちや共同臨床研究機関から注目されたのではないかと、力説するまでもないだろう。

研究は実用化に意義があると若い世代に伝えたい

「N-NOSE」はより精度を高めるために数十回検査を繰り返すなど、検査の手間とコストがかかる。

「しかし、私は社員に対し『精度が最も大切』と口を酸っぱく言っています。1回の検査で済めば確かに効率的でしょうが、念入りに繰り返す必要があるのです」(広津氏)

 加えてWebマガジンや週刊誌が、元社員のコメントを挿入したネガティブな記事を掲載した。広津氏はそれに対して、反論に時間をかけるくらいなら、精度を高める努力をしたい、と考えている。

「元社員の情報漏洩については非常に残念に思っています。しかし、雑誌等に載った彼らの話は実用化以前のことで、検査サービスでは行っていないことなのです。実用化に到るまでにさまざまな課題があったのは事実ですが、それらをクリアしたから今がある。現在と未来を見据えてほしいのです」

 また、「N-NOSE」は 86.3%という高い確率でがん判定が可能と公表している。その数字に疑問を投げかける医学関係者もいる。この数字は2019年、人間ドック学会をはじめ3つの学会で、共同研究している病院の医師が発表した数値の平均値であり、同社が恣意的に操作したものではない。そうした客観的なデータを公開しているからこそ、広津氏は、「数字に嘘はないのです」と自信をのぞかせる。

「『はじめの一歩』は非科学的なものや感情も含め、批判にさらされるものと、痛感しています。大学を創設したいと願うのも、批判も含めて私がどのような道を歩んできたかを、若い世代に伝えたいからなのです」(広津氏)

 研究者には、発明(研究)と実用化は別との考えがあるという。だが科学や医学は、リスクを覚悟して実用化に向かい、世に問う必要があると力説する。

 古い殻を破り、前進することを若い世代に伝えるうえでも、「N-NOSE」の今後から目が離せない。

広津崇亮(ひろつ・たかあき)
1972年山口県生まれ。株式会社HIROTSUバイオサイエンス代表取締役。97年、東京大学大学院理学系研究科修士課程修了。同年サントリー株式会社に入社。翌年退社し、東京大学大学院博士課程に入学。線虫の嗅覚に関する研究を開始。2000年3月、線虫の匂いに対する嗜好性を解析した論文がイギリスの科学雑誌『Nature(ネイチャー)』に掲載。01年、東京大学大学院理学系研究科博士課程修了。博士(理学)。日生本学術振興会特別研究員、京都大学大学院生命化学研究科研究員、九州大学大学院理学研究院助教などを経て、16年より現職。18年よりオーストラリアのクィーンズランド工科大学招聘准教授。井上研究奨励賞、中山賞奨励賞、ナイスステップな研究者(文部科学省)などの受賞歴がある。著書に『がん検診は、線虫のしごと——精度は9割「生物診断」が命を救う』(光文社新書)





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