
江戸時代後期に画家、学者、藩士として活躍した渡辺崋山(わたなべかざん/1793-1841)。江戸の田原藩上屋敷(現在の最高裁判所付近)で渡辺家の長男として生まれ、苦労しながらも多彩な才能を発揮した。崋山の国元・田原藩があった愛知県田原市田原町の「田原市博物館」では、崋山の生涯を紹介した展示が常設されている。
幼少期の貧しい経験が、堅実な崋山の人生をつくる
崋山の幼少期は貧しいものだった。崋山の父・定通が病がちだったため薬代がかさんだ上に、仕えている田原藩は長きにわたる財政難のため給料が少ない。崋山の下には7人の弟妹がいたが、次々に奉公に出されたという。そんな崋山が多才の藩士として大成するまでには人並み以上の努力を要したわけだが、彼の立志を伝えるこんなエピソードがある。
12歳の頃、日本橋のあたりで備前池田侯の若君の大名行列を横切ってしまった崋山は、人々がいる前で池田侯の家来らにぶたれ、叩かれた。駕籠の中にいた若君は崋山と変わらない年頃。「生まれが違うとはいえ、同じ人間であるのになぜ違うのか」と歯痒く思った崋山は、学問で身を立て位の高い人々と対等に話せる立場になろうと誓った。

田原市博物館のエントランスには、この時の崋山の様子を表した像が展示されている。
田原藩の家老として、天保の大飢饉を乗り越える

画家としての才能が最も評価されている崋山だが、本業は田原藩士であった。8歳だった寛政12(1800)年から藩に仕え、藩士として一家を養いながら、鷹見星皐(たかみせいこう)や佐藤一斎(さとういっさい)、松崎慊堂(まつざきこうどう)らから儒学を学んだ。31歳の頃には、親への孝行、学問への精進、画道の追求などを「心の掟」として記している。
主君の三宅家で忠孝を誓っていた崋山は、天保3(1832)年に40歳で家老となると、堅実な政務を行った。翌年には、天保10(1839)年頃まで続くことになる天保の大飢饉が発生。多くの餓死者を出し、あちこちで百姓一揆が起こるなど日本中が混乱に陥った、歴史に残る危機だ。冷静な崋山は、いずれ田原にも飢饉が及ぶことを予測。翌年には、藩をあげて穀物の備蓄庫「報民倉」を建設した。


崋山が考えた通り、天保7(1836)年から翌年にかけて田原も飢饉に見舞われる。この時、崋山は大病を患っていたが、用人や藩医に指示し、飢饉救済や粥の施しを実施。報民倉が開けられ、米が配られた。その結果、田原藩では一人の餓死者も流亡者も出さなかったという。

西洋の技法を取り入れ、若くして評判となった画家としての才能

さまざまな肩書きを持つ崋山だが、儒学はある意味、江戸時代の教養人には必須のものであった。そうすると、突出した才能はやはり絵である。国宝や国指定重要文化財として多くの傑作が残っていることからも分かるだろう。
崋山は幼少期から絵画に親しみ、最初の絵の師は田原藩士の平山文鏡であった。平山は、崋山が8歳の頃に亡くなるが、その後も白川芝山(しらかわしざん)、金子金陵(かねこきんりょう)、谷文晁(たにぶんちょう)らに師事。23歳の頃には、江戸で知られた画家になっていたという。
崋山一家にとって、絵は貴重な稼ぎももたらした。崋山の父は60歳で亡くなるが、30歳代からずっと病を抱えていたため医療費が必要だった。父亡き後も、高齢の母、妻、3人の子を養わないといけなかったが、田原藩は相変わらずの薄給。藩の仕事は忙しかったが、崋山は寝る間も惜しんで絵を描いて家計の足しにしていたのだ。
花鳥画や山水画、俳画など様々な絵を描いたが、肖像画を最も得意とした。画家として名が売れてしばらくしてからは、西洋の陰影法を取り入れるようになった。崋山の描いた肖像画について、友人だった曲亭馬琴は「崋山の肖像画はモデルとよく似ており、 肖像画を描いて欲しいという人が多かった」と日記に書いている。
以下は、田原市博物館では所蔵していないが、崋山が描いた肖像画の代表作である。国宝に指定されている「鷹見泉石像」は最高傑作。顔は極力線を描かないようにして陰影表現を取り入れ、一方で衣服は日本元来の描き方で表されている。



田原市博物館では、「一掃百態図」(重文/1818年)、「千山万水図」(重文/1841年)、「孔子像」(重文/1838)、父を描いた「渡辺巴洲像画稿」(重文/1824)などを所蔵しており、企画展のタイミングなどで鑑賞することができる。

蟄居生活の末、田原で閉じた49年の生涯
優秀な藩士、才能ある画家として堅実に生きた崋山だったが、晩年は不運に見舞われる。引き金は、家老になった後に高野長英(たかのちょうえい)らとともに励んだ、蘭学や西洋事情の研究だった。
研究を進め、日本近海に進出する欧米諸国やそれに対して適切な対応が取れない幕府に危機感を持ち、「慎機論」で幕政批判を展開したものの、公開は差し控えた。ところが、天保10(1839)年に起きた蘭学者弾圧事件「蛮社の獄」で崋山は捕えられ、当初の罪状では無実だったものの、家宅捜査で「慎機論」が見つかり、幕府批判の重罪に問われることに。弟子の椿椿山(つばきちんざん)や師の松崎慊堂らの必死の救出活動で重罪は免れたが、田原藩での蟄居を言い渡された。
そもそも、田原藩のある渥美半島は太平洋に面しているため海から攻め込まれやすい環境で、崋山自身が藩の海防掛りを兼務したことが、蘭学や西洋事情の研究のきっかけだった。真面目な性格が、悲運な晩年を招いてしまった。

天保11(1840)年1月に田原に到着し、2月から池ノ原屋敷で家族と共に暮らし始めた。この頃の崋山は、魚や虫などを題材に絵を描いていた。先ほど紹介した「千山万水図」も蟄居中の作品だ。田原藩からの手当はわずかだったため弟子たちは一家の家計を助けようと、崋山の代わりに絵を売っていた。だが意に反して、「罪人身を慎まず」と悪評を呼んでしまう。崋山は藩主に迷惑がかからないようにと、天保12(1841)年10月11日に自刃した。「不忠不孝渡辺登」と書いた墓表を残し、49年間の生涯に自ら幕を閉じた。


田原市博物館
住所:愛知県田原市田原町巴江11-1
料金:一般310円(企画展・特別展時は別料金)
時間:9時〜17時(最終入場は16時半)
休館日:月曜日(祝日の場合はその翌日)、展示替日、年末年始
電話:0531-22-1720
https://www.taharamuseum.gr.jp/
田原市内にある崋山ゆかりの地

崋山が仕えた三宅家の居城「田原城」跡
田原市博物館は、田原城二の丸跡にある。田原城自体は、石垣、堀、土塁の一部が残るのみで、桜門と二の丸櫓は復元されたものだ。公園として整備されている。御城印は田原市博物館で購入できる。
住所:愛知県田原市田原町巴江11-1

池ノ原公園
公園内には崋山が蟄居した幽居跡がある。邸宅は全国各地からの寄付によって復元された。公園内には渡辺崋山銅像や、東郷平八郎による「崋山先生玉砕之趾」の碑などもある。
住所:愛知県田原市田原町中小路17

崋山神社
田原城出丸跡に、昭和21(1946)年に建立。その後の伊勢湾台風で倒れたが、昭和41(1966)年に再建された。崋山の命日である10月11日は毎年、大祭が開催される。御朱印も人気だ。
住所:愛知県田原市田原町巴江12-1

巴江神社
崋山が仕えた三宅家の遠祖とされる児島高徳と、藩祖の三宅康貞を祀った神社。昭和8(1933)年までは田原市博物館がある二の丸跡にあったため、二の丸社と呼ばれていた。
住所:愛知県田原市田原町巴江10
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協力◉田原市、田原市博物館