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鮮烈な壁画が示す遙かなる海のつながり【古墳ライターが旅した、見た、聞いた!vol.8】

茨城県ひたちなか市の台地の上にある虎塚古墳。この古墳の石室は、1400年以上経っても当時の姿そのままを残している。春と秋の公開日には、県の内外から多くの人が見学に集まる、色あざやかな装飾古墳から一体、何が見えてくるのか? この古墳を見守り続けてきた稲田健一さん(公益財団法人ひたちなか市生活・文化・スポーツ公社 文化課 課長補佐)にお話を伺った。


人と自然と科学のタッグが素晴らしい石室を守った!

一度見たら忘れられない、ビビッドな虎塚古墳の石室。この石室を調査した当時、明治大学教授だった大塚初重氏と当時の勝田市長の川又敏雄氏は「市民の宝ともいえる虎塚古墳の石室は市民に開放する」という考えのもと、石室の公開を決断した。現在も春と秋の年に2回、石室見学を実施しており、たくさんの人が訪れている。

「壁画だ!」

1973年9月12日、茨城県勝田市(現・ひたちなか市)の東中根(ひがしなかね)台地の上にある虎塚古墳は報道陣や市民の熱い興奮とどよめきに包まれた。

密封された玄門が開くと、その隙間から、白く明るい壁に真っ赤なドーナツ上の文様が2つ、輝くように現れた。太陽にも月にも、そして目にも見える謎多き文様だ。その前年に奈良県明日香村で高松塚古墳の壁画が発見されたが、畿内から遠く離れた茨城県での壁画発見の大ニュースは、日本中を駆け抜けた。

高松塚古墳の壁画は残念なことに微生物などによる影響で、大きく損傷してしまったが、虎塚古墳は高松塚古墳とは異なる調査方法がとられた。当時、明治大学の教授だった大塚初重氏が団長となり、東京文化財研究所の保存科学部長だった新井英夫氏を筆頭に、保存科学のエキスパートたちが参加することになったのだ。これは世界でも画期的な発掘調査だった。

最初に、新井氏によって未開口の横穴式石室の空気サンプルが採取され、温度、湿度、空気組成、微生物など、石室内の環境が数字でデータ化された。

「虎塚古墳の石室内の温度は一年を通じて、発掘前と同じ、ほぼ15度前後で保たれています。これは未開口の石室内の環境データを知っているから言えることで、最初の分析データが虎塚古墳の保存に大きく寄与しているのは間違いありません。今も、1400年以上前と変わらぬ石室環境が保たれていることも奇跡的ですね。墳丘が石室を最適な環境で包み込んで、鮮やかな壁画を現代まで守り残してくれたのです。まさに『墳丘の力』ですね」

そう話す稲田さんは、小学5年生の時、虎塚古墳石室の一般公開を見にきて、生涯の道が決まってしまった人だ。「この壁画の謎を解き明かしたい!」という夢を追い続けて、今は愛する古墳のすぐ近くで研究生活を送っている。「壁画の謎を解くという夢の実現にはまだまだ程遠いですよ」と苦笑するが、虎塚古墳一筋の人生とはうらやましい。

絵画の技法や文様から 九州との密接な関係を示唆

【図1】エキゾチックな雰囲気も感じさせる虎塚古墳の石室デザイン。今見てもモダンなセンスを感じさせる。

稲田さんは装飾古墳の謎を解くためのヒントとして、海の交流に注目している。というのも虎塚古墳には九州の影響が濃厚に感じられるからだ。

虎塚古墳の文様は白土で下塗りした壁面に、赤いベンガラで連続三角文などの幾何学文様や、大刀(たち)や靫(ゆぎ)などの具象的な文様を描いている(図1)。白地に鮮やかな赤で描かれたモチーフは、さまざまな想像を掻き立てる。奥壁中央のドーナツ形文様は、円のアウトラインをごく細い線刻で描いてから内側を塗りつぶす技法を用いている。これは九州・熊本の菊池川流域の永安寺東古墳や塚坊主古墳などの装飾古墳に用いられている技法によく似ているという。

「ヤマト王権は6世紀に九州を制定したのち、東北の蝦夷討伐へと舵を切ります。多くの人や物資が東北へと運ばれていきましたが、その重要な拠点の一つが常陸国だったと考えられます」

房総半島沖は複雑な海流が交差して海の難所といわれている。危険な海域を避けて、東京湾から市原あたりに上陸し、香取海(かとりのうみ/現在の霞ヶ浦の原型となる内海)から河川などを使って現在のひたちなか市まで北上するルートが古代から使われていたという。

「九州の人々が現在のひたちなか市にやってきて、高度な航海技術を伝え、また地元民は地域の海流などの情報を彼らに教えて、双方で手を組んで蝦夷討伐に貢献したと思います」

九州出身の新リーダーが古墳を乗っ取った?

美しく保全され、穏やかな風情が漂う虎塚古墳。地域の宝として、人々が大切に守り続けている。

虎塚古墳の墓道からは多くの鉄鏃(てつぞく)などが発見されている。不思議なことにそれらは石室から掻き出されたような状態だった。

「追葬(ついそう/のちの時代に再度、石室を利用して違う人を埋葬すること)が行われたのではないでしょうか。初代の埋葬から、20~30年後に別の人物が埋葬されたようですね」

発見当時、石室の床はベンガラで真っ赤に塗られており、前出の鉄鏃にベンガラ片が混ざっていても不思議はないが見つからなかった。

「壁画は最初はなくて、追葬時に新たな被葬者のために描かれたものかもしれません。以前の副葬品を乱雑に掻き出しているところから、前の被葬者の痕跡を消そうとする意思も感じられて、〝乗っ取られた古墳〟と呼ばれることもあります(笑)」

虎塚古墳が築造された台地の斜面に十五郎穴横穴墓群(じゅうごろうあなよこあなぼぐん)という2024年2月に国指定史跡になった横穴墓群がある。稲田さんも発掘調査に関わっているが、3つの支群から成り立ち、確認されただけで274基もの横穴墓が現存している。

「横穴墓自体が九州発祥なのでここにも九州の匂いが色濃く漂ってきますよね」

この横穴墓群はほぼ南向きに開口している。一直線に見ると、那珂川の河口と青い太平洋がちらりと見える。そのずっと先は、横穴墓をつくった人々の故郷かもしれぬ九州へとつながっている。

もう一度、虎塚古墳の石室を振り返ってみる。石室の第一印象はとにかく明るい。赤い円が2つ、強いパワーを放ち、日が差していないのに、明るく陽光に満ちた風景を感じさせる。あくまで筆者の妄想だが、虎塚古墳の新しい被葬者が九州出身だとすれば、輝くような九州の明るい風景を懐かしんで、石室に表現したとも考えられないだろうか?

墓はアイデンティティだ。永遠の眠りにつく場所は、故郷のような懐かしい空間にしたいと願った人がいても不思議ではないだろう。

波濤(はとう)を越えて、人は往く。勇気ある古代の人々の墓域に立って、ひととき、古代の往来に思いを馳せてほしい。

東日本最大の横穴墓群!十五郎穴横穴墓群

虎塚古墳の少し後の7世紀前半から9世紀前半の時期に、同じ台地の斜面に築かれた壮大な規模の横穴墓群。斜面にいくつもの横穴墓が開口している。中には正倉院に収められている宝物と類似する金銅製の金具が付いた非常に豪華な刀子(とうす)が見つかった横穴墓もある。虎塚古墳の被葬者が当地域の首長とすれば、代表的な横穴墓はそれに準ずる豪族たちの墓域かもしれない。

ひたちなか市埋蔵文化財調査センター

ひたちなか市内の埋蔵文化財の調査、研究、保存などを行っている。展示室で虎塚古墳の石室のレプリカや出土品を見学できる。
住所:茨城県ひたちなか市中根3499 ☎029-276-8311 開館時間:9:00~17:00(入館~16:30) 休館日:月曜(祝日の場合はその翌日、年末年始) 入館料:無料

\今月のナビゲーター/

(公財)ひたちなか市生活・文化・スポーツ公社 文化課 課長補佐 稲田健一さん

1969年、茨城県勝田市(現:ひたちなか市)生まれ。立正大学文学部史学科卒業。主な発掘調査の担当に十五郎穴横穴墓群などがある。主な著作に『装飾古墳と海の交流 虎塚古墳・十五郎穴横穴墓群』(新泉社)、「最新の前方後円墳と横穴墓群-虎塚古墳と十五郎穴横穴墓群の検討から-」(『古代文化』72-2)などがある。


写真提供:ひたちなか市教育委員会

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郡 麻江

こおり・まえ 古墳ライター。 時々、添乗員。京都在住。得意な伝統工芸関係の取材を中心に、「京都の人、モノ、コト」を主体とする仕事を続けながら、2018年、ライフワークと言えるテーマ「古墳」に出会う。同年、百舌鳥古市古墳群(2019年世界遺産登録)の古墳ガイドブック『ザ・古墳群 百舌鳥と古市89基』(140B)、『都心から行ける日帰り古墳 関東1都6県の古墳と古墳群102』(ワニブックス)、『巨大古墳の古代史』(共著・宝島社新書)、『中公ムック 日本百名墳』(中央公論新社)などを取材・執筆。古墳や古代遺跡をテーマに、各地の古墳の取材活動を続ける。その縁で、添乗員の資格を取得。古墳オタクとして、オン・オフともに全国の古墳や遺跡を巡っている。日本旅のペンクラブ会員。

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