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戦国の自治都市・平野を散策|真田幸村が地雷を仕掛けた地蔵堂も

大坂の陣ゆかりの史跡も残る

 大阪から奈良に通じる「奈良街道」は、〝平野道〟という別称のとおり天王寺の南東の平野の町を経由する道。平野の町は戦国時代に商都として栄え、第二次世界大戦で大阪が大空襲を受けた際にもその被害を免れたために随所にかつての面影を偲ばせる町並みが残っています。防御施設としての環濠の遺構も保存されていますね。

 町のまわりを堀で囲った「環濠都市」といえば、堺が有名ですが、平野はまたそれとは少し違うキャラの町だったようです。

 永禄11年(1568)、織田信長が上洛戦を敢行したとき、堺は武装し、平野に「共に信長を撃退しよう」と共同戦線結成を呼びかけましたが、平野ははかばかしい返事をせず、あまつさえとっとと信長に従属してしまったのです。

 ところが平野の町が食えないところはそれからで、のちに大坂本願寺が信長と敵対して戦争を始めると、末寺の光栄寺などがこっそりと本願寺の本拠・石山に兵糧米を運び入れたんですね。天正4年(1576)に信長は平野の有力者たちに
「けしからん、本願寺への兵糧入れは厳禁とし、もし背けば成敗する!」
と朱印状を送っています。

 とはいうものの、実際に処刑者が出なかったのは、平野の経済力を信長としても無視できず穏便に事を済ませる他は無かったのでしょう。
 何せ、同じく信長の敵・武田家の重臣である秋山虎繁(信友)が守る美濃岩村城に兵糧米を搬入したとされた三河刈谷の武将・水野信元(徳川家康の伯父)はこの前年にあっさり殺されているのですから。

 そんな平野の顔役のひとりが、末吉勘兵衛利方。信長の下で大和国の筒井順慶から奈良との流通特権を保証され、海運業を発展させ、のち徳川家康の通過政策にも深く関与した大立て者です。
 杭全神社の横にある長寶寺墓地には、その勘兵衛さんほか末吉家一族が眠ります。

長寶寺墓地の末吉勘兵衛利方墓

 勘兵衛さんは大坂の陣で家康に味方しますが、夏の陣について平野の町も戦場になったという伝承が残っていますね。
 それがここ、町の南にあった樋ノ尻口門の横合いの樋ノ尻口地蔵のお堂。

 言い伝えでは、夏の陣で家康がここを通ると予想した真田信繁(幸村)が地蔵堂に地雷火を仕掛け、爆発から危うく難を逃れた家康の代わりにお地蔵様の首が飛んだとされています。お地蔵様も災難でしたが、その首と言われるものが近くの全興寺さんに祀られているので、お参りしておきましょう。

 そして、地蔵堂の向かい側にはもうひとつ、大坂の陣ゆかりの史跡が。

 家康の家臣、安藤正次のお墓です。夏の陣で戦功をあげたものの重傷を負った正次は平野で療養しましたが、回復の見込みが無いと分かると「未練がましいのは我慢できぬ」と自害して果ててしまったのです。

 戦国時代の商人の生き様と武人の覚悟、その両方が体感できる、平野散策でした。

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橋場 日月 はしば あきら 大阪府出身。古文書などの史料を駆使した独自のアプローチで、新たな史観を浮き彫りにする研究家兼作家。主な著作に『新説桶狭間合戦』(学研)、『地形で読み解く「真田三代」最強の秘密』(朝日新書)、『大判ビジュアル図解 大迫力!写真と絵でわかる日本史』(西東社)など。

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