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すべてのものに命があった 〜世界遺産、北海道の縄文遺跡群への旅〜|古墳を愛するライター時々添乗員の 古代遺跡の旅

海を望む大船遺跡に虹がかかって、奇跡のように美しい瞬間。縄文人たちもこんな風景を見たのだろうか。

採集、漁労、狩猟により1万年以上にわたって営まれた縄文時代。農耕国家になる以前の日本で、人々はJOMONという時代において、豊かな精神文化と暮らしを脈々と伝え、続けてきた。その文化を色濃く残す、北海道、青森県、岩手県、秋田県各地の縄文遺跡群が2021(令和3)年7月27日、世界文化遺産に登録された。北の大地・北海道では、恵まれた自然環境の中で縄文文化が力強く、ダイナミックに花開き、個性溢れる遺跡が数多く残る。そんな遺跡を巡ってみた。

【ライターからひとこと】
この記事は、考古の世界への旅の先達、毎回、考古学の専門家にアドバイスをお願いしています。今回の先達は、札幌国際大学 縄文世界遺産研究室の越田賢一郎先生です。ラストに先生からのメッセージもいただいていますので、お楽しみに…!

まず、越田賢一郎先生の著書(「北海道の古代・中世がわかる本」亜璃西社 関口明・越田賢一郎・坂梨夏代共著)から、一文を抜粋してみる。

―縄文時代をひと言で表すなら、それは「自然との共生」といえる。地球規模の気候変動によって発生した温暖化は、ブナやナラが生い茂る落葉広葉樹林をもたらし、新たな植物性食料の利用を可能にした。豊かな森林資源を有効に活用するため、人々は土器という新たな道具を生み出していったのである。土器の出現は、貯蔵という新たな食料保存方法を生み出し、人々の生活スタイルを急速に変化させていく。その結果、住居も地面を掘り込む固定式の竪穴式住居に移行していくことになり、こうした定住生活から、自分、あるいは自分たちの土地という概念が生み出されたのではないだろうか。その後、土器の増加とともに大規模集落が形成されると、その場所は彼らにとって共通の土地となり、集団の結束を強化する「故郷」のような存在になったと考えられる。―

  この一文の中に、縄文を知るための様々なキーワードが輝くように散りばめられている。
 「地球規模の気候変動」は縄文海進(じょうもんかいしん)と呼ばれる海水面の上昇と陸地の変化だ。陸地に海水がどんどん流れ込み、湾などが形成された。中でも駒ヶ岳などの噴火によってできた「噴火湾」にも注目したい。北海道室蘭市と茅部郡砂原町(かやべぐんさわらちょう)を結ぶ、長い海岸線と陸岸によって囲まれた海域。古代から北海道でも屈指の豊かな漁場を形づくり、縄文文化を営むのに欠かせない自然環境の一つとなっている。
 噴火湾の沿岸にはおおよそ三百近い縄文遺跡が見つかっている。それらの遺跡には数多くの貝塚があった。海の恵を享受しながら海洋に依存した暮らしが発展し、さらに集落と集落を結ぶような噴火湾文化圏のようなネットワークがあったかもしれない。他にも縄文といえば「土器」を思い浮かべるし、「竪穴式住居」を建てて、移動はせず、狩猟採集をしながらの「定住生活」。そこから生まれる「自分たちの土地」=「故郷」という概念。「故郷」という概念が人と人との結びつきを深め、思想や宗教観などの精神世界を育んでいったのではないだろうか。
 このあたりのキーワードを胸に刻みつつ、北海道の縄文世界を訪れてみたい。

  • 噴火湾:北海道南西部に存在する巨大な湾で、内浦湾とも呼ばれる。周囲に活火山が多いため、このような名称が付けられた。湾内の海水は滋養に溢れ、今でもホタテなどの養殖が盛んにおこなわれている

人もモノも命ある大切な存在。〜縄文の精神世界に触れる黄金貝塚(きたこがねかいづか)〜

 緑の丘に広がる縄文時代前期(約6000〜5000年前)の集落遺跡は、今も、のどかな風景が残る。丘全体に貝塚、住居跡、そして墓域、あるいは鹿用の落とし穴、そして祭祀が行われたであろう、水場などが見つかっている。
 
 丘を登っていくと、真っ白い貝塚跡が真っ先に目に入ってくる。帆立貝の貝殻を使って貝塚があった場所に再現しているのだが、その大きさに驚く。遺跡の中に5カ所の貝塚があるが、貝塚が当時の人々にとって、とても大切だったことがわかる。
 貝塚からはカキやウニ、オットセイなどの海獣類の骨が多く含まれている。当時の人々がどんなものを食べていたのか、イメージが広がる。

ホタテの貝殻で再現された貝塚。

 衝撃を受けたのが「貝塚は単なるゴミ捨て場ではなかった」ということだった。なんと貝塚の層の中に14体もの人骨が埋葬されていたのだ。貝殻や動物の骨の中に、人骨が丁寧に葬られていたという。これは、人骨だけでなく、食糧にした動植物もまた、丁寧にここに埋めたことが想像できるという。そう、ここは「供養」の場所だったのだ。
「縄文人にとって貝塚は、全ての生き物の墓地だった」。
 資料にあったこの言葉が胸を打つ。
 人にも、ものにも感謝をして、丁寧に埋葬し、供養する場所。アイヌの人々に「物送り」という考え方があり、日常の暮らしで使う道具や食べかすなどのゴミなどを「送り場」という場所に納めて、祈りを捧げたという。縄文人も、貝塚で儀式を行い、天与の恵みに対して感謝を捧げたのではないか。まさに彼らの思想は、アイヌの人々の考え方へとつながっていったのではないだろうか。

 また遺跡からはたくさんの道具や土器が見つかっている。特に土器はそれまでの、そこが尖った形の貝殻文土器(貝殻の縁を使って線を引いたもの)しか見つかっていなかったが、北黄金貝塚のA地点から、貝殻文がついていて、かつ、平らな底の土器が見つかった。出土した場所から「上坂式土器」と呼ばれている。

 煮炊き物や食料の保存に使われたであろう、これらの土器が意味するものは、前出のように、この遺跡一帯が、ここに住む人々の「故郷」を意味する土地だったのではないか?ということだ。大切な家族が亡くなれば、ともに祭祀を行って丁寧に弔う。ともに狩をして得た動物を食糧とすれば、その骨もまた丁寧に埋葬する。そうして集落の中の結束を高めていく。
 貝塚は、暮らしと祭祀を支える重要な、人々の心のよりどころのような存在だったのだろう。

水場と呼ばれる場所。道具たちの「供養」の場にしていたとも言われている。

 さらに丘の麓のあたりには湧き水が湧いていて、ここは水場と呼ばれている。縄文人たちはここに水汲み用の足場を作って、水仕事をしていたようだ。約2000年にわたって使われ続けていたようで、水場は非常に大切にされていたことがわかる。
 この水場からはまた、石でできた道具を壊したものが大量に見つかっている。使えなくなった石の道具をわざとここで壊し、壊すことで完全に「あの世」に送り出したのではないかと考えられるそうだ。また、道具とは別に供えられたような特別な石が見つかっていることから、この水場を道具たちの「供養」の場にしていたと思われる。
 石は川原など水辺で採られる。水場は神聖な場所であり、また道具が生まれた場所とも考えられる。縄文人たちは、私たちが考えるより、ずっと豊かな、そして高い精神性を持っていたのだ。
 万物に神が宿ると考える日本人のプリミティブな宗教観にも通じる感性。縄文人の暮らしぶりと宗教観は、今の私たちにも宿る“何ものか”に、深く、強く響いてくる。
ほんとうに北の大地の縄文遺跡は、様々なことを教えてくれる。

 遺跡のある丘の麓に建つ「北黄金塚情報センター」では、遺跡からの出土品や縄文世界に触れる貴重な展示があるので、そちらもぜひ見学して欲しい。

助け合う心、介護・福祉の精神が人々に宿っていたのか…? その証に触れる〜入江・高砂貝塚〜

入江貝塚からは噴火湾を望むことができる。この海は古代から豊かな漁場として、現在まで恵みをもたらせてくれている。

 入江貝塚は噴火湾※を望む標高約20m高台にある。昭和17年に、海軍工場の住宅建設に伴い、貝塚が発見された。
 道路から階段を登っていくと、遺跡までの間がトンネルになっていて、その左右に貴重な資料が展示されている。右側はガラス張りの中に、貝層の剥ぎ取りが展示されていて、貝塚に埋められたさまざまなものをリアルに見ることができる。アサリなどの貝殻、カレイやスズキ、イルカ、エゾシカなどの魚や動物の骨が、黒々とした土の中に白く浮き出てよく見える。
 貝層やパネルを見ながらトンネルを抜けると、明るい丘陵の上に辿り着く。青い噴火湾がすぐ近くに見え、遠くに有珠山や駒ヶ岳を望むことができる。
 緑の原っぱの中に、竪穴住居が復元され、のどかな空気が流れている。
 ここから見える海で漁労をして、山道を登ってこの場所まで戻り、一日の仕事を終えて、ほっとしながら、ここからの景色を縄文人も眺めに違いない。古代からこの景色はずっと続いているのだろうと感じる。

 この遺跡は縄文時代、約5000年前から4000年前にかけて営まれた集落で、貝塚、竪穴住居、そして墓域を伴っていることわかっている。遺跡からは、土器や狩猟、そして漁労のための道具も数多く見つかっている。シカで作った銛頭(もりがしら)が、この時代にすでにあったことに驚く。また、軸と鉤の部分を別々に作った大形の結合式釣針も使用されていた。二又に分かれていて、真ん中の穴に獲物を引きよせる紐を結び、一方が獲物から外れないためのカエシの役割をもつ。大型魚を獲るときに使ったようだ。縄文人の知恵と技術の緻密さには舌を巻く。

住居部分。真ん中にあるのは炉の跡と思われる。

 この集落は墓域を伴っているが、遺跡内では15基の墓が見つかっている。ここでもやはり、亡くなった人は貝塚に埋葬されていた。この貝塚も単なるゴミ捨て場ではなく、アイヌの物送り場の意味合いを濃厚に感じさせる。
 人骨も発見されている。最も印象に残ったのは、筋萎縮症かポリオを患っていた人の骨が見つかったことだ。四肢の骨が胴体に比べて非常に細く、おそらく歩行困難だったと見られている。しかし、この人物は成人していて、つまり幼い頃からこの集落で育てられていたことがわかる。
 漁労や狩猟もできず、介護が必要だった人が、きちんと大人になれたということは、たとえ自力で生計を立てられずとも、集落に役立つ労働ができずとも、この世に授かった大切な命を周囲の温かな力で守り、手厚く保護して育てたということなのだろう。遺体の上には円礫が積み上げられていたそうで、埋葬も手厚く丁寧に行われたことが伝わってくる。温かな介護、助け合いの心が生きる社会がすでに形成されていたことに、胸が熱くなる。

埋葬されていた人骨。おそらく筋萎縮症などの病を患っていた人の骨と考えられる(トンネル内に展示されているパネルより)。

 入江貝塚から北西に200〜300mのところにある高砂貝塚は、入江貝塚より少し低く、標高約10mのところ位置する。この遺跡は昭和25年、伊達高校の郷土研究部の生徒が発見し、調査が始まった。
 整備された遊歩道を歩いていくと、真っ白なホタテ貝の貝殻で再現された貝塚がいくつも現れた。貝層にはホタテ、アサリ、ニシン、イルカ、エゾシカ、オットセイなどの骨が見つかっている。食性は入江貝塚の縄文人たちとほぼ同じだ。
 この貝塚もまた墓でもあった。縄文時代後期と晩期の墓域が同じ場所にあることから、ここに暮らす人々の風習として、代々、貝塚に墓をつくることが受け継がれていったと考えられるそうだ。
 墓には石が並べられ(配石遺構)、ベンガラが塗られ、翡翠や緑色凝灰岩の玉製品などが見つかっている。興味深かったのは、人骨から抜歯の痕が見られたことだ。これは北海道で初めて発見された人骨だという。成人になる通過儀礼なのか、何かの祭祀に関わるものなのかわからないけれど、縄文人の大切な風習だったのだろう。

遺跡のある丘陵から坂を下ると海がある。縄文人たちも坂道を登って漁労から帰ってきたのだろうか。

 もう一つ、心惹かれたものがある。骨盤から胎児の骨が出土したという成人女性の人骨だ。この人は妊産婦だったようだ。
 妊娠中の何らかのトラブルか、この女性は赤ちゃんをお腹の中に抱いたまま、亡くなってしまったらしい。墓には大量のベンガラが撒かれ、黒曜石のナイフや翡翠が副葬品として埋葬されていた。これは特殊なかたちらしく、集落の人々はせっかく授かった大切な命と、母である女性を悼み、母子を丁寧に弔ったのだろう。
 縄文人の精神世界、心の動きをリアルに知ることはできないけれど、現地にいってその地に立つことで、彼らの「人にも、ものにもすべてに命がある」という精神世界にダイレクトに触れることができたと思う。
 人同士、自然と人、「共にいきる」ための精神的なつながりを大切にし、命を尊び、死を悼む心に、少し近づけたような気がした。

 高砂貝塚のすぐ近くにある『入江・高砂貝塚館』にて、両遺跡の貴重な出土品や縄文文化に関する資料などを展示している。ぜひとも立ち寄ってみてほしい。

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郡 麻江

こおり・まえ 古墳ライター。 時々、添乗員。京都在住。得意な伝統工芸関係の取材を中心に、「京都の人、モノ、コト」を主体とする仕事を続けながら、2018年、ライフワークと言えるテーマ「古墳」に出会う。同年、百舌鳥古市古墳群(2019年世界遺産登録)の古墳ガイドブック『ザ・古墳群 百舌鳥と古市89基』(140B)、『都心から行ける日帰り古墳 関東1都6県の古墳と古墳群102』(ワニブックス)、『巨大古墳の古代史』(共著・宝島社新書)、『中公ムック 日本百名墳』(中央公論新社)などを取材・執筆。古墳や古代遺跡をテーマに、各地の古墳の取材活動を続ける。その縁で、添乗員の資格を取得。古墳オタクとして、オン・オフともに全国の古墳や遺跡を巡っている。日本旅のペンクラブ会員。

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