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世界文化遺産「百舌鳥・古市古墳群」をめぐる5つの謎|巨大天皇陵古墳の成り立ち、内部構造、被葬者…etc

ユネスコ世界文化遺産に登録された百舌鳥・古市古墳群。宮内庁が陵墓に治定し、管理する古墳は立ち入りが制限されており、被葬者や構造など、明確には分からないことも多い。「百舌鳥・古市古墳群世界文化遺産登録有識者会議」委員でもある考古学者・福永伸哉さんに取材。1600年前の巨大遺跡にまつわる謎の一端をつまびらかにする。(『一個人』2019年8月号「古代史23の謎」特集より抜粋)

■築造当時の百舌鳥古墳群再現イメージCG
現在の古墳は樹木で覆われた森のようだが、築造当時は人工的に盛土された段築がむき出しで、テラスには朱塗りの埴輪が列状にびっしりと並べられていた。上空から眺めると、前方後円墳や円墳、方墳など、形も規模も多様な古墳が点在しているのが分かる。画像/堺市博物館上映シアターより(堺市提供)

百舌鳥・古市古墳群は、古代の王権が残した巨大なるモニュメント

 日本列島には16万基以上もの古墳がある。中でも日本最大のものが、仁徳天皇陵古墳(大仙陵古墳)であることは周知の事実。しかし、百舌鳥・古市古墳群にはほかにも、全国2位の応神天皇陵古墳(誉田御廟山古墳)や3位の履中天皇陵古墳(上石津ミサンザイ古墳)などの巨大古墳をはじめ、大小様々な前方後円墳や円墳、方墳が、各4㎞四方の地域に密集しているのだ。

「日本中のどこを探してもこれほどまでにバラエティに富んだ構成の古墳群は見当たりません。だからこそ百舌鳥・古市古墳群は価値があるのです。なぜなら、古墳の形と大きさの多様性は、文献には残っていない古代国家の社会構造と王権の政治的な仕組みを、現代に伝える貴重な遺産だからです」

 考古学者の福永伸哉さんはこう話す。百舌鳥・古市古墳群のうち、今回世界遺産の構成資産とされたのは、古墳時代の最盛期である4世紀後半から5世紀後半にかけて築造された49基だ。当時の墳丘の姿や出土品、その場所に築造された理由などをひもとけば、古代国家の成り立ちへと辿り着くことができるという。

「いわば古墳群そのものが、古代王権のモニュメントとして、その歴史を雄弁に物語っているのです」

圧倒的な存在感を放つ古墳は、政権の威信を「海外」に誇示

 築造当時の古墳は、円形・三角形・方形といった幾何学的な図形を組み合わせて立体的に設計された巨大なモニュメント。墳丘斜面は葺石でびっしりと覆われ、平坦面のテラスにはベンガラで朱く塗られた埴輪がずらりと並べられていた。仁徳天皇陵古墳では、埴輪の数は約3万本といわれる。

「朱色には魔除けや復活の意味がありました。葺石は白く明るい石を使ったことから、太陽の光に照らされて荘厳に輝く古墳の姿は、さぞかし神々しかったことでしょう。このような威容にした理由は、被葬者の権力を民衆や政敵に誇示するとともに、海外にもアピールするためでした」と福永さん。

 日本では4世紀後半から大陸との相互交流が本格化したといわれる。5世紀中頃以降は中国の南朝や百済との繋がりが深まり、百舌鳥・古市古墳群の時代は東アジアとの交渉がヤマト政権にとって非常に重要となっていた。

「仁徳天皇陵古墳をはじめとする巨大古墳は、大阪湾を望む台地上に築かれました。当時の海岸線は今よりも内陸にあったので、大陸から航路で使節団がやってきたならば、海からも見えるその巨大さで圧倒させる。ヤマト政権の威信を海外に誇示するという、大きな役割を担っていたのが古墳なのです」

 また、周辺の古墳からは甲冑や刀剣、農具などが出土している。当時、鉄資源は海外からの供給に頼っていたことからも、人々が東アジアと活発に交流していたことを物語っている。

 そして何よりその価値を世界に知らしめているのは、堺市のような都市化が進んだ地域に1600年前の構造物が姿を変えることなく残っている不変性だと福永さんは力説する。

「まずはぐるりと仁徳天皇陵古墳を一周してみてください。そうすれば、どれだけ大きいか実感できるでしょう。こんな巨大な遺跡が市街地のど真ん中に残っていることは、世界的に見ても極めて特殊な事例です。百舌鳥・古市古墳群は、1600年の遥かな時を超えて今も大都市の中にその姿をたたえ、私たちは、千年先までそれらが残っていることを思い描ける。それこそが最も世界に誇るべきことであり、大切にすべきメンタリティだと思います」

【百舌鳥・古市古墳群を巡る5つの謎】

石室内部に塗られた、ベンガラよりも鮮やかな水銀朱は権力の証でもあった。画像/堺市博物館上映シアターより(堺市提供)

■前方後円墳の形にはどのような意味があるのか?

 仁徳天皇陵古墳に代表される前方後円墳は、日本独自の墳墓の形状だ。このような形が生まれた理由としては、各地の葬送文化が混ざったという説が有力である。

「前方後円墳は、円形の墳墓の前で葬送儀礼が行われていたものが、次第に儀式場が拡大して出来たという説もあります。いずれにせよ、弥生時代に発達した各地の墳墓の特徴が融合したもので、まさにヤマト政権が全国の文化を吸収した集大成。ヤマト政権が征服国家ではなく、社会を統合して作る統合型国家であったことが前方後円墳の特徴に現れています」(福永さん)

■なぜ大和から河内へ…巨大古墳群の移動の理由は?

 4世紀中頃まで奈良盆地を本拠としていたヤマト政権は、4世紀末には和泉・河内へと移動し、巨大古墳築造の最盛期を迎える。しかし、これは王朝の交替を示すものではなく、連合政権内での主導権の交替だと福永さん。

「百舌鳥・古市古墳群の時代は、東アジアとの関係が非常に重要でした。そこで、海の玄関口になる大阪湾に近い和泉・河内の勢力が大陸との外交を担って政権の中枢にいたため、古墳の築造場所も大阪平野へと移ったのだと考えられます」

■3万本もの埴輪が並ぶ!築造当時の姿とは?

 墳丘が葺石で覆われ、周囲にはぐるりとベンガラで朱く塗られた埴輪が並べられていたというのが本来の姿。当時は周囲に遮るものが何もなかっただけに、見る者に一種、異様な威圧感を与えたことは想像に難くない。

「現在は樹木が生い茂り、大きさだけでなく見た目も山林と区別がつきませんが、築造当時は円形や方形といった幾何学的な平面形で構成されています。2段・3段と積み重ねられた墳丘は石に覆われることから、自然の山とは明らかに異なる人工構築物でした」

■貴重な宝物も副葬された!内部はどうなっているのか?

 仁徳天皇陵古墳の内部は発掘調査が行われていないが、明治5年(1872)の土砂崩れで石室が露出した際に長持形石棺や副葬品などが確認されており、その絵図が残っている。

「副葬品としてあったのは金銅製甲冑や太刀金具、鉄刀、ガラス製容器など。これらは被葬者の権力、または後継者の権威を示すためのものです。また、石室が貴重な水銀朱で鮮やかに塗られるのも巨大な権力の象徴。石室が人目に触れるのはセレモニーの時だけですが、そのために手間をかけて装飾したのですから。確かめようがないのですが、仁徳天皇陵古墳の内部にも間違いなく使われていたことでしょう」

■確定された古墳はない!?被葬者は誰なのか?

 日本の古墳は被葬者を特定する副葬品などが出土していないため、物証によって被葬者が判明した例はほとんどない。

「当然、仁徳天皇陵古墳もしかり。ただ、副葬品の甲冑が鍍金されていたことからも被葬者の権威の高さは明白です。豪族の場合は鉄板製ですから。この時代なら、倭の五王(*)のひとりであることは間違いないでしょう。ただ、被葬者が誰であるかということよりも、1600年も前の歴史の一片がそこに存在すること自体に、大きな価値があるのです」

*中国の歴史書『宋書』『梁書』に名が記された、古代日本(倭国)の王、讃・珍・済・興・武。『古事記』『日本書紀』に登場する第15代応神天皇から第21代雄略天皇までの誰かに該当すると見られている。

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