出羽山形57万石から近江大森1万石へ転落
今から390年前の寛永8年11月22日(現在の暦で1632年1月13日)、最上義俊が病死。享年26歳でした。
元・出羽藩主の義俊は、戦国の雄・最上義光の孫にあたります。
最上家は源義家以来の源氏の名門ですから、名門好きの徳川家康は、義光が積極的に家康へ接近したこともあってこの家を随分と優遇し、義俊が幼年で家を継いだ後、家中に不和が起こっても幕府は老臣一致して幼君を輔け、国を治めよ、と説得したほどです。
肥後加藤家や安芸福島家の場合とは雲泥の差の対応ですが、『藩翰譜』によれば幕府がそこまで穏健に事を収めようと図っても、最上家の家老たちは「今仰せに従ってもまた讒言する者が出たらその時は身が危ういから、今隠居して国を去りたい」と主張して言う事を聴かず、東北の抑えとしての役割を任せられない、として遂に改易となりました。
この騒動の際、義俊の叔父の山野辺義忠に家督を継がせようという動きがあったという話もありますが、同書は明確にこれを否定しています。
一方、『寛政重修諸家譜』の最上家譜では「家臣大半は叔父義忠をして家督たらしめん事を願う」となっていますが、これは義俊の器量を少しだけでもましなものとしたい、という最上家側の忖度から来た記述かも知れません。
改易によって57万石から近江大森城(ほか三河に飛び領)1万石に転落した義俊は、「その後、義俊、身常に煩わしく籠もり居て」(同書)と病気がちでしたが、「養生も叶わず二十六歳をもって病死」(『最上記追加』)と、寛永8年(1632)11月22日(旧暦)、26歳を一期として失意の内に世を去りました。
『寛政重修諸家譜』には浅草の万隆寺に葬る、とあるので、江戸屋敷で亡くなったのでしょう。
それでも幕府の最上家への好意は続き、義俊の子・義智以降、この家は旗本として続きます。