戦国の麒麟児・明智光秀が築いた居城「坂本城」。光秀没後に姿を消した幻の名城、その遺構が琵琶湖の水位低下により姿を現した。関西在住の歴史作家・橋場日月さんによる史跡探訪記をお届けします。
坂本城跡の石垣が水面上へ露出した
少雨の影響で琵琶湖の水位が下がったとな!なに、60センチも!?
ということで、出ました。何が出た?石が出た。そうです、西岸の水が引いたところに、坂本城跡の石垣が水面上へ露出したのです。
これは行かなければならないでしょう。ひとっ走り、行って参りました。
現地に到着し、「坂本城本丸跡」の石碑がある一角の南側のフェンスの向こうに、石垣に至る細道があります。
ルート沿いになかなか親切な案内が続くので、迷うことはありません。
そして、湖岸に出ると左(北方)に進みます。
おお、これです。湖岸にせり出した船着き場の跡だったのでしょうか、コの字形の石列が顔を覗かせていますね。
このご開帳は2007年以来だそうです。こんな機会はめったにありませんから、今回スケジュールが合ってラッキーでした。
画面奥が、南になります。筆者が現地を訪問したのは11月15日でしたが、翌16日には周辺にコーンが置かれ、19日にはロープも張られて石垣に近付いて触ったりいたずらしたり出来ないようにされたということなので、1日違いで間近に撮影できた筆者は幸せでした。
琵琶湖水運を取り込んだ坂本城。明智光秀が元亀2年(1571)に築いたこの湖城は、宣教師フロイスが「安土城に次ぐ豪壮華麗さ」と驚嘆し、大天守・小天守ふたつの天守を備えた坂本城の姿は現在知る術もありませんが、築城時には大雨によって湖水面が上昇していたと考えられます。水面下深くにも石垣を築いた光秀の技術力と経済力のすごさを、このささやかに残った石列が訴えかけてくるような気がしました。
こちらの写真は、湖岸の東方の内陸部を南北に通る北国街道。光秀は、水運と陸運を取り込んだ、まさに「ロジスティクス」の一大拠点として坂本城を活用したのでした。