3世紀後半、巨大な前方後円墳、箸墓古墳(はしはかこふん/奈良県桜井市)が突如、現れた。その背景には一体何があったのだろうか?古代の日本人にとって「墓」の意味はどう変わっていったのか?桜井市立埋蔵文化財センター所長の橋本輝彦さんと共に探っていく。
地方の有力なクニグニが連合して、纒向の地に最初の都を建設?
「箸墓古墳という巨大な前方後円墳出現の背景にはヤマト王権の樹立という、それまでの列島にはなかった大変革が起きていました。その前提として、まず、纒向(まきむく)遺跡の成り立ちを考えることが必要不可欠です」と、橋本さん。
纒向遺跡とは奈良県桜井市の北部、天理市との境にある、東西約2km、南北約1.5 kmに及ぶ広大な遺跡で、その中に箸墓古墳も含まれる。3世紀初頭から4世紀初頭にかけて突如、この地に大集落が現れて、急激に発展した。
「この地域は、弥生時代には人の活動はほとんど見られず、むしろ空き地といっていい地域だったようです。そこに突然、大都市が築かれたこと自体が、非常に画期的な出来事です。纒向遺跡は人々が意図を持って、何もないところに都(みやこ)をつくったのではないかと考えられています」
その背景には、2世紀末ごろから中国大陸や朝鮮半島の政治的・軍事的な緊張が関係している。それまで地域ごとに営まれていた有力なクニグニ、つまり、北部九州や吉備(きび)、出雲(いずも)などの首長たちは、海の向こうからの脅威に対抗するのは地域だけの力だけでは困難だと考えた。そこで、互いに連合して新たな都の建設を目指したのではないかとする考え方があるのだ。
纒向地域が選ばれたのは、地勢的な意味合いが強かった。九州から吉備を通って、瀬戸内海を緩衝(かんしょう)として、大阪湾から当時の河内湖(かわちこ)に入り、内陸部は大和川を南下し、奈良・纒向へ。山々を障壁(しょうへき)として、都の守りを固めるためにも奈良盆地は適していたのだろう。
「その当時の『倭国(わこく』は、西日本を中心とする連合体でした。ここから中部や東海から関東、さらには東北地方にかけて、新たな仲間を増やし、連合体の力を強めていこうという意志があったはずです。東国や東北を見据えたとき、纒向地域あたりは非常に良い場所だったのでしょう」
纒向遺跡の規模は弥生時代の他の拠点集落をはるかに上回っており、古墳時代の初め頃の他地域の集落と比較しても、これほど大規模なものはほとんどないという。
また辻(つじ)地区という場所では規則性を持った大規模な掘立柱建物群跡(ほったてばしらたてものぐんあと)や、東田(ひがいだ)地区では纒向大溝(まきむくおおみぞ)といわれる幅約5m、深さ約1.2mの人の字形の溝などが発見された。
「当時、この集落は最新の優れた都市機能を備えていたことが浮かび上がってきます。纒向遺跡は3世紀に新たな政治的意図を持って建設された日本で最初の都と考えられています。この地こそが、ヤマト王権の始まりの地なのです」
箸墓古墳の前段階にあたる『纒向型前方後円墳』の誕生
ヤマト王権という新たな政治体制が生まれたとはいえ、王権は最初から大きな力を持っていたわけではなかった。
「纒向に大集落がつくられた当初は、脆弱な政権だったと思いますが、50年、100年と時間をかけて、王権は強大な力をつけていったはずです。その力の変遷は古墳の姿にも見てとれます。300m近い箸墓古墳の登場は、その巨大さを持ってしても確かにセンセーショナルな出来事でした。しかし、実はその前段階にもう一つのセンセーショナルな出来事があったのです。それが『纒向型前方後円墳』の誕生です」
3世紀初頭頃、近畿地方の墳墓は20〜30mほどの方形や円形の墓が中心だったのだが、3世紀前半には、この纒向の地で墳丘長100m近い、前方後円墳がいきなり登場したという。
「先の纒向遺跡の成立事情に加え、円形と方形を組み合わせた、この新しいかたちの古墳の誕生は、ゼロから1をつくる、つまり、それまではなかったものを創出するのですから、その時期に何らかの大変革が起きたと考えてまちがいはないでしょう。それこそがヤマト王権成立という最大の画期的な出来事であったと考えられています」
纒向遺跡内の纒向古墳群の中で、代表的な前方後円墳が纒向石塚古墳、矢塚(やづか)古墳、ホケノ山古墳、勝山古墳、東田(ひがいだ)大塚古墳である。このうち、前方部が短いタイプの纒向石塚古墳、矢塚古墳、ホケノ山古墳を『纒向型前方後円墳』と呼び、前方部が少し長いタイプの勝山古墳と東田大塚古墳を『定形化前方後円墳』と呼ぶ。『纒向型前方後円墳』に遅れて『定形化前方後円墳』が出現し、その後に現れる箸墓古墳などの前方後円墳を『定形型前方後円墳』と呼ぶそうだ(図1参照)。
「これらの前方後円墳はヤマト王権樹立に深く関係する人物が被葬者だと考えられます」
注目すべきは、『纒向型前方後円墳』が、全国的に広がっていったという点だ。南は鹿児島県、北は新潟県や山形県あたりまで分布しているという。
「まだ脆弱だった連合政権=初期のヤマト王権に参画してくれた地域の首長たちに、当時、最も新しい『纒向型前方後円墳』の築造を認めるという動きがあったのではないかと考えられます。西日本だけでなく、東北地方まで及んでいるということは、箸墓古墳の築造以前に、倭国の基礎固めが着々と行われていたということを示しています。古式の『纒向型前方後円墳』は全国で100基以上確認されており、それこそ、積極的に築造していった感があるのですが、ヤマト王権側も連合に参画してくれるメンバーを、少しでも多く増やしたかったという意図が感じられますね」
前方後円墳の築造を認められた地方の首長側にも、自分はヤマト王権とパイプを持っているという優位性を近隣の首長に示すことができるというメリットがあった。
巨大な前方後円墳が示す大王という超越した存在
しかし、箸墓古墳の築造以降、巨大な前方後円墳の築造はむしろ、数が絞られていった。ヤマト王権の成立にかかわった有力な地域、あるいは密接な関係のある地域の首長のみが、巨大な前方後円墳の築造を認められるようになったのだ。
「ヤマト王権が基盤を固めて、クニグニとの結束を強め、相当な求心力をつけていったと考えていいでしょう。前方後円墳はまさしく、地域とヤマト王権とのつながりを示すシンボルであり、さらに巨大古墳は地域の王たちを束ねて、その頂点に立つ倭国の大王(だいおう)の墓という意味を持っていたのです」
連合体であったヤマト王権が、そのトップである大王のもとで、倭国が一つにまとまっていくという国家形成の道は、箸墓古墳の築造時から始まったといえる。
前方後円墳の広がりは、政治的な意味だけではなかった。鏡や大刀(たち)、装飾品などの副葬品、葬送の儀礼、墳丘への埴輪の樹立など、築造技術とともに祭祀(さいし)の手法や文化、精神性を共有することで、より一層、結束を強めていくことを目指したのだろう。
「弥生時代にはリーダーそのものが神格化されるということは基本的にはありませんでした。それが突出して、トップの大王の神格化が進むのが古墳時代だと私は考えています。ただし、大王=神ではなく、あくまで人ではあるけれど、畏れ敬うべき存在と捉えていたのではないでしょうか。そういう人物にふさわしい墓として、古墳は巨大化していったのでしょう」
夕暮れ時、三輪山を背景に佇む箸墓古墳を眺めてみると、神秘的な空気が色濃く増してくるような気がする。
古墳は何も語らないけれど、静かな佇まいの中に、崇高な何か、我々を遥かに超越した大いなる存在を確かに感じさせてくれる。
桜井市立埋蔵文化財センター
古代、数々の天皇の宮が営まれ、ヤマト王権の政治的拠点だった桜井市の歴史的遺物を数多く展示している。
住所:奈良県桜井市芝58-2
☎0744-42-6005
開館時間:9:00~16:30
休館日:月・火曜日(祝日は開館)、祝日の翌日、年末年始
料金:200円
\今月のナビゲーター/
桜井市立埋蔵文化財センター所長
橋本輝彦さん
昭和44(1969)年、奈良県生まれ。平成4(1992)年、奈良大学卒業。平成6(1994)年より、桜井市教育委員会に勤務。主な調査の担当として纒向遺跡、纒向古墳群、赤坂天王山古墳などがある。専門は古墳時代初頭の土器や墳墓。著書に『大和・纒向遺跡』(学生社 共著)、『研究最前線 邪馬台国』(朝日新聞出版 朝日選書878、共著)、『邪馬台国からヤマト王権へ』(ナカニシヤ出版 奈良大学ブックレット04、共著)などがある。
【特別コラム】
ここからすべてが始まった。国家誕生、そして仏教伝来の地、桜井
奈良県桜井市は奈良盆地の南東部に位置し、ヤマト王権発祥の地、国家形成の地として知られている。古事記や日本書紀などに崇神天皇の「磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)」、垂仁天皇の「纒向珠城宮(まきむくたまきのみや)」、など、数多くの大王の宮が営まれたことが記されている(図2参照)。また、桜井市の金屋地区を流れる初瀬川沿いに海石榴市(つばいち)と呼ばれる船着場があり、大陸からの物資などを大阪(難波津)から大和川をさかのぼって運んだといわれている。欽明天皇13(552)年、百済からの使者が、欽明天皇が宮を置いたこの地に仏像や経典を運び入れたと日本書紀に記されており、日本に初めて仏教が伝来した場所として「仏教伝来地」の顕彰碑が建てられている。
写真提供:桜井市