社会的弱者の救済策だった?
今から413年前の慶長14年1月2日(現在の暦で1609年2月6日)、江戸幕府が振り売りの禁止令を発する。
振り売りというのは、棒手振り(ぼてふり)ともいいます。時代劇でもよく出てくる、棒の両側に荷を提げて真ん中を肩で担いで売り歩く、よくある零細商人のスタイルですね。
こんな市井のありふれた商いを、なにも幕府が禁じるほどの事もなかろうに、とは思いますが、『台徳公記』に実際にこうあります。
「百姓振り売り、一銭そりすべからず」
一銭そり、というのは一銭剃りで、路上営業の料金ひとり一銭という髪結いです。
農民による振り売りと、同じく路上営業の理髪業も禁止されているわけですね。
この一銭剃り、一銭職(いっせんじょく)ともいい、家康によって名づけられたという伝承もある名称だそうで、落語にも「身にはボロっこを着ていても、由緒正しいご身分で、家業は御免の一銭職」という下りがあるものも。まさに前田慶次「傾奇者」大久保彦左衛門「御意見番」、早乙女主水之介「向こう傷」以上の「天下御免」ぶりですが、当の名付け親の家康によって禁止されたのはご愛敬でしょうか。
さらに史料を見ると、
「下僕の年期一年の決まりを禁止、商人や牢人対象。農民が臨時に物売りに出て一銭たりとも得る事はならない。火事の際に武家の奉公人は一切現場に赴くな。刃傷で負傷した者を隠し置くな。ほおかむりなど、布で顔を深く包み隠す者は見付け次第切り捨てよ」
という内容が続きます。
この政令の背景には、
①農民を江戸から締め出して農業生産に専念させ、年貢米と消費農産物の確保を図る
②治安維持のために住所・所属を即座に確認できない者を排除する(関ヶ原牢人対策)
があったと考えられ、この頃幕府は、家康が息子の義直に尾張を与え、藤堂高虎を伊勢・伊賀に移し、井伊直孝の起用を開始するなど、対豊臣包囲網を築き始めていますから、並行して足元の生産体制の確立と治安の強化を目指したものと思われます。
この2点で、幕府政治を総括する大御所・徳川家康は一石二鳥を実現したのですが、実はもうひとつ、一石二鳥の秘策がこの政令には隠されていました。幕府は後にこの振り売りの認可対象をシングルマザーや老人、少年、障がいを持つ人などにシフトしたのです。そう、社会的弱者の救済策として振り売りを活用したという訳。元手がほぼいらず手軽にできる商売だけに、認可無しでやろうとする輩が絶えませんでしたが、実効性はともかくとして幕府はこの原則にこだわって何度も引き締め令を発しています。
お金を渡してハイおしまい、後は知らぬ存ぜぬの現代日本の政治家・役人の方々とは少し違うような、家康以降歴代将軍さまの授産政策でした。