徳川家康・織田信雄連合軍vs羽柴秀吉の岸和田城攻防戦
岸和田は、大阪・堺の南にあります。だんじりで知られるこの町のもうひとつの象徴。岸和田城については、過去にもご紹介したことがありますが、今回はまた違った方向からこのお城を眺めてみたいと思います。
岸和田城を東側から臨んだ写真がこちら。本丸と天守の向こう、堀を挟んだ先には二の丸があり、四角い本丸と二の丸が細い土橋でつながっている様子が糸を巻く道具「ちきり」に似ているというのが「千亀利」の由来と言いますが、たしかに「呂」の字みたいな形状になってます。
さて、その岸和田城が戦国時代に注目されたのが、天正12年(1584)3月22日の岸和田城攻防戦。
徳川家康・織田信雄連合軍を討つべく羽柴秀吉が大坂を出陣した翌日、家康らと連携した紀伊国の根来衆・雑賀衆とその和泉国における前線拠点が挙兵。城下に攻め寄せて来た紀州勢は2万ともいいますが、城を守る羽柴軍は中村一氏の手勢3000他8000。秀吉時代以前の岸和田城は現在の二の丸部分が本丸となっており、全体で3000弱の兵を収容することができたといいますから、そこから逐次拡張整備されて倍以上の兵が駐屯できる規模にまで発展していたのでしょう。
江戸時代の地図を見ると、浜から城までの距離はわずか300メートル余りしかなく、その間には町と紀州街道がありますから、結構な密度の城下町だったんじゃないかと思います。これを含めた惣構(そうがまえ)が、城の外殻として機能していました。
さて、肝心の岸和田城攻防戦ですが、ここで有名な地元伝承を紹介しましょう。
圧倒的に優勢な紀州勢に対し、どこからか大きな法師が現れて鉄の錫杖を振り回してなぎ倒していく。さらに幾千幾万とも知れない蛸たちが墨を吹きかけてとうとう敵を追い払ってしまった。実はこの大法師、はるか昔に大蛸に乗って海からやってきた岸和田の守り神のようなお地蔵様が、訳あって長い間城の堀に沈んでいたものだったことが分かり、城内で大事にされ、やがて城下の天性寺(てんしょうじ)さんに移されたということです。
これが岸和田の「蛸地蔵伝説」。
興味深いのは無数の蛸たちが加勢するという点で、史実の岸和田城防衛戦では、蜂須賀家政・明石左近則実、黒田長政、黒田利高、赤松下野守(上総介則英?)ら播磨の領主たちが助っ人として参加したため、それを播磨の名産・明石のマダコに託して表現したのではないでしょうか。
岸和田の海でも蛸は採れましたが、明石の蛸は海峡の潮にもまれて身が締まり、泉州の蛸は柔らかいということからも、戦う蛸たちが明石=播磨由来というのがシックリくると思うのですけどね。
この戦いで一氏は五千(秀吉書状)、数千(丹羽長秀書状)、あるいは769人(『貝塚御座所日記』)と紀州勢を討ち取りましたが、事前に敵の来襲を予見して準備していたかというとそうでもなく、「岸和田には夢にも存ぜず」と城の間近に紀州勢が迫るまで気づかなかったようです。
戦後中村一氏はそれほど大きな賞を受けておらず、援軍の播磨勢の方が活躍した節も見られるので、ますます蛸薬師の伝説が真実味を帯びるところではあります。