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縄文〜弥生〜古墳時代 私たちの祖先の食事情~古代ニッポンの人々は、一体何を食べていたのか?【古墳ライターが旅した、見た、聞いた!vol.2-1】

 私たち日本人の腸環境は、その長い歴史において、日々、食べてきたものによってつくられたと言っても過言ではない。最新の遺伝子解析によると、古代人の方が現代人より多様な腸内フローラを持っていたことがわかっている。魚介や動物、米、野菜、穀物、キノコ、豆、海藻などをふんだんに取り入れていた私たちの祖先の食事情を振りかえって、その知恵を改めて見直してみたい。

 今回は、日本最大級の弥生遺跡・妻木晩田(むきばんだ)遺跡の保存運動に取り組む関西外国語大学教授の佐古和枝先生に話をうかがった。


1万6000年前に成立していたSDGsな暮らし

 旧石器時代は本州も九州も現在の北海道のような亜寒帯性(あかんたいせい)の気候で針葉樹が多く、食料になる植物が少なかった。その後、縄文時代になると地球の温暖化で広葉樹の森(東日本は落葉広葉樹、西日本は常緑広葉樹)が広がり、森には食べられるものが満ちみちていた。

 「狩りのために動き回らずとも、目の前の森や海が豊富な食料を与えてくれるので、人々は狩猟・漁労・採集を基本にした定住生活を始めます」(佐古先生)

 縄文人が食べていたものはドングリ、シイの実、クリなどの木の実、野イチゴブドウ、アケビなどの果物、それにユリの根ヤマノイモなどの植物の根、ワラビなどの山菜にキノコ、などなど。
 動物や鳥は狩りで仕留めていたが、イノシシシカが最も多く、他にウサギムササビカモシカクマなどを食べていた。鳥は本州では沼や湖の周辺でキジカモ、ガン、ハクチョウ、アホウドリの骨などが見つかっており、渡り鳥を捕らえて食していたようだ。河川や湖ではサケマス、海辺ではタイ、スズキ、ブリ、サバ、アジ、マグロ、イワシなど、魚介類もよく食べるようになった。
 どうやら縄文人の食事には現代の我々の食卓と変わらない、バラエティ豊かな食材が並んでいたようだ。

 「食事情の変化は、暮らしにも変化をもたらしました。アクのある木の実や山菜などを食べるために煮炊きが必要になり、調理のための土器が出現しました。加えて魚や貝も煮炊きして、お出汁の原型のような美味しいスープを食べていたことでしょう」(佐古先生)

 東北地方ではトチの実の強いアクを灰を使ってアク抜きをしていたらしい。木の実は、秋に拾い集めて貯蔵穴(ちょぞうけつ)に溜めておき、関東地方などでは貝は干貝にしていた。保存の知恵がすでに縄文時代にあったということに少なからず驚かされる。

 「縄文人は大量の祭祀(さいし)=まつりの道具を作りました。狩猟・漁労・採集生活の食料はすべて神様からのいただき物ですから、明日の食料が得られるかどうかは神様次第。自然を動かす見えざる力を神と崇(あが)めて祈り、感謝を捧げるまつりを盛んに行っていたのでしょう。彼らはまた、森や海の恵みを取り尽くさないようにしていたようです。乱獲すればその種が絶滅するという危険を回避していたのかもしれません」(佐古先生)

 21世紀に暮らす我々は今、懸命にSDGsと叫んでいるが、1万6000年以上も前にすでに、縄文人たちは持続可能な暮らしを実現していたのだ。

効率重視の考えをもたらした弥生時代の食の一大革命

 弥生時代に入ると、稲作が精力的に行われるようになる。

「稲作は朝鮮半島からの渡来人が、北部九州の人々に伝えました。稲作をすれば安定的に食料を得られることが段々とわかり、米づくりは全国に広まっていきました」(佐古先生)

 下の表1を見てほしい。米は生産効率が非常に良いことがわかる。500人を一年間養うための必要なカロリーは、米ならば104t必要で、そのために必要な面積が23ha。同じ量をドングリなら412 ha、イノシシならばなんと5 5 0 0 ha!もの面積が必要になる。米の威力は本当にすごい…!

 弥生時代はのほか、アワキビ、大豆小豆などの豆類も作った。安定的な食料である穀物が手に入るようになったせいか、縄文人ほど多彩な種類のものを食べなくなったようだ。魚介についても弥生時代になると、マダイスズキなど季節ごとに捕りやすい特定の種類を食べるようになる。コイフナ、ナマズ、ドジョウなど淡水魚を多く食べるようになったのも弥生時代だ。田んぼに河川から淡水魚が流れ込み、それらを捕るようになったからだ。

人口増加による食料不足が競争社会を生む

 「縄文社会と大きく異なる弥生社会の特徴は、〝効率優先〞の考え方でしょうね」と佐古先生はいう。農耕を始めると暮らしも安定するため出生率が上がり、人口増加の傾向が強まる。

 当然ながら食料もますます必要となるので、人々は米の生産性をあげることに追い立てられるようになる。水田を広げようとすれば、土地や水、そこで働く労働力が奪い合いになる。そこから争いが起こるのは必至だ。その混乱を収めるべく、地域を統率するリーダーが登場し、生産効率を上げていったのだろう。

「食べ尽くさない配慮をしながら、自然界との共存共栄を大切にした縄文社会から、効率優先の社会への変革。弥生時代には現代社会の縮図のような、競争社会・格差社会が成立したといってもいいでしょう」(佐古先生)


上/広大な鳥取県立むきばんだ史跡公園の一角に再現された弥生のムラの風景。弥生時代の人々はここでどのように暮らしていたのだろうか? 左下/炭化米(たんかまい)と稲穂の収穫に使った石包丁(いしぼうちょう)。炭化米は竪穴住居の埋土(まいど)を洗って抽出された。 右下/弥生時代の復元竪穴住居(内部)

 次に来る古墳時代の食事情は弥生時代のそれと大きくは変わらない。が、食材の調理法には新たな変化が持ち込まれた。竈(かまど)や甑(こしき)という新しい調理用の道具が現れ、米を蒸して食べるようになる。我々と同じようにふっくらモチっと甘やかな米の味わいを古墳時代の人々も楽しんだのだろうか。
 弥生・古墳時代の食事情を振り返ると、米を中心に野菜や魚介、時々、動物や鳥の肉を食べるという、まさにニッポンの食卓の原風景が蘇る。
 空腹の時、炊き立てのご飯の匂いや、出汁の香りを想像すると沸き立つように食欲がむくむくと旺盛になるのは、筆者だけではないはずだ。
 古くは狩猟・漁労から始まり、その後、稲作に支えられた祖先の食の記憶は、我々の体の隅々まで細胞レベルで染み込み、強烈に刻印されているのだろう。 

佐古先生が応援!鳥取県立むきばんだ史跡公園
大山の麓に広がる広大な弥生遺跡。竪穴住居跡約460棟をはじめ、山陰地方特有の四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)などの墳墓39基、環壕(かんごう)など、山陰地方の弥生時代像に触れられるフィールドミュージアム。ガイダンス施設「弥生の館むきばんだ」が併設されている。
住所:鳥取県西伯郡大山町妻木1115-4 
TEL:0859-37-4000 
https://www.pref.tottori.lg.jp/mukibanda/ 
休園日:毎月第4月曜日、年末年始(12/29~1/3)
開園時間:9時~17時(入園は16時30分まで) 
入園料:無料

\今回のナビゲーター/
関西外国語大学教授 佐古和枝(さこかずえ)先生
同志社大学卒業、同大学院前期課程修了。故郷・鳥取県の我が国最大級の弥生遺跡・妻木晩田(むきばんだ)遺跡の保存運動に取り組み、市民団体「むきばんだ応援団」(NPO法人)を立ち上げ、副団長に就任。kid’s考古学研究所副所長。『ようこそ考古学の世界へ』中央公論新社、『よくわかる考古学』(共著)ミネルヴァ書房など、著書多数。

イラスト◉さかいひろこ(WEBサイト「全国こども考古学教室」より) 撮影◉竹中稔彦(佐古先生のプロフィール写真) 写真提供◉鳥取県立むきばんだ史跡公園 

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郡 麻江

こおり・まえ 古墳ライター。 時々、添乗員。京都在住。得意な伝統工芸関係の取材を中心に、「京都の人、モノ、コト」を主体とする仕事を続けながら、2018年、ライフワークと言えるテーマ「古墳」に出会う。同年、百舌鳥古市古墳群(2019年世界遺産登録)の古墳ガイドブック『ザ・古墳群 百舌鳥と古市89基』(140B)、『都心から行ける日帰り古墳 関東1都6県の古墳と古墳群102』(ワニブックス)、『巨大古墳の古代史』(共著・宝島社新書)、『中公ムック 日本百名墳』(中央公論新社)などを取材・執筆。古墳や古代遺跡をテーマに、各地の古墳の取材活動を続ける。その縁で、添乗員の資格を取得。古墳オタクとして、オン・オフともに全国の古墳や遺跡を巡っている。日本旅のペンクラブ会員。

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