『古事記』に「袁本杼命(をほどのみこと)」として登場する継体(けいたい)天皇。その真の陵(みささぎ)と注目される今城塚(いましろづか)古墳(大阪府高槻市)は、日本最大級の埴輪祭祀場(はにわさいしば)を有する。埴輪を通して、古代人は私たちに何を語り、伝えているのだろうか。
即位後、淀川流域を本拠に。継体天皇と縁深い三島の地
大阪府北部の北摂地域に位置する高槻市の今城塚古墳は、墳丘長181mを誇る前方後円墳だ。長年にわたる発掘調査で、日本最大級の埴輪祭祀場などの新発見が相次ぎ、6世紀前半の大王墓(だいおうぼ)に間違いないという見解が打ち出された。
古事記にも登場する継体天皇は、武烈(ぶれつ)天皇に後継者がいなかったため、白羽の矢が立てられ、507年に即位した。古事記にはまたその最期について〝天皇の御年は43歳。丁未(ひのとひつじ)(西暦527年)の年の4月9日に崩御された。御陵は三島(みしま)の藍陵(あいのみささぎ)である〟と記されている。
「このあたりは古くから三島と呼ばれ、継体天皇は即位後、淀川流域を中心にこの周辺地域で活動していました。長年、隣の茨木(いばらき)市の太田茶臼山(おおだちゃうすやま)古墳が継体天皇の陵墓(天皇陵)とされてきましたが、今城塚古墳を継体天皇の真陵(しんりょう)(真の陵墓)と考えてもおかしくないと思います」と、今城塚古代歴史館館長の宮崎康雄さんは話す。
継体天皇の真陵と言われる決め手の一つが、周堤(しゅうてい)(古墳の周囲に築造された堤)につくられた巨大な埴輪祭祀場の存在だ。二重の周堤の内側の堤に、張出(はりだし)というステージのような長方形の突出部が発見され、膨大な量の形象(けいしょう)埴輪が発見された。想像を遥かに超える壮大な埴輪祭祀の姿が現れたのだ。当時、家形18点、人物28点、動物や水鳥など33点、甲冑や大刀、盾などの器材が31点など、総数136点もの埴輪が見つかったが、現在では200点以上が確認され、今後、調査が進めば240点近くになるのでは?という。
それぞれの埴輪には繊細な造作が施されている。たとえば巫女など女性の人物埴輪は全員が素足で、足の指先まで細やかに表現されており、鶏形(にわとりがた)埴輪はトサカを立て、羽を膨らませて、今にも鳴きだしそうなリアリティがある。
「区画の間にギザギザの鋸歯(きょし)状になった塀が設置されていますが、その中央あたりに二本の円柱の上下を板状のものでつなげた二脚門(にきゃくもん)らしきものあり、これは非常に希少な埴輪です」
まるで埴輪の絵巻物! スケールの大きさに感動
埴輪列は、東から西にかけて四つの区画に分かれていることがわかってきた。
一番東側の「一区」は、人物埴輪が一体もなく、身分の高い人にさしかける傘である蓋(きぬがさ)が配されている。「二区」には、水鳥や盾付きの大刀が整然と並び、大型の家や鶏が配置され、巫女が一体だけ置かれている。「一区」と「二区」は埴輪が少なく、どこか寂しげな印象で、大王崩御の悲しみを表しているのだろうか。
最も広い「三区」は、打って変わって埴輪がぎっしりと並び立ち、華やかさが溢れる。「二区」から続く大刀(たち)が二列に、西に頭を向けた水鳥たちも並び、大型の神殿らしい建物が複数あり、その脇に鶏が配されている。縦に二列に並ぶ巫女(みこ)たちの中で腕を広げて天を仰ぐ一際目立つ女性像がある。宮崎さんは巫女のリーダーではないかという。敷物の上に座っている楽人(がくじん)たちが、音楽を奏でる中、巫女たちが捧げ物を持って歩を進め、リーダーの巫女が天を仰ぎ、まるで祭祀(さいし)の現場が蘇ってくるようだ。
「四区」には武人、鷹使い、力士などの専門の職業を担った人物埴輪が配され、牛、馬、鳥などの動物埴輪が真っ直ぐに隊列をつくっている。馬や牛の二列縦隊に加えて、おそらく白鳥と思われる大型の水鳥も、全て西向きに縦に並んでいる。
「一区は閉ざされた、非常にパーソナルな空間で、静かな奥津城(おくつき)(墓)に被葬者を安置し、悲しみと祈りのシーンを描いているように見えます。二区もまた静かな趣きがあり、遺体を仮安置して、最終的な「死」を確認する葬送儀礼である殯(もがり)を執り行う場面なのかもしれません。三区で突然、華やかな場面になりますが、クライマックスを迎える本葬の様子を表しているのではないでしょうか。四区ではいよいよ大王の魂が体を離れ、白鳥とともに黄泉(よみ)の国へと送り出すシーンを描いているように見えます。被葬者の魂を鎮め、安らかに送りだす葬送の儀式を、時系列とともに豪華な埴輪列で表現したのかもしれません」
人物や動物形の埴輪とともに、器財(きざい)埴輪が多く見受けられるのも特徴的だ。器財埴輪には盾、大刀、甲冑(かっちゅう)、矢を入れる靫(ゆぎ)、蓋などがあるが、宮崎さんは大王の威厳と葬送の儀式の威容を示す威儀物(いぎのもの)の意味があるのでは?という。
「それだけではなく、後継者を世に認めさせる目的があったかもしれません。私が先代をしっかりと送り出しましたよと世に示す意味もあったと思います」
埴輪の数といい、種類の多彩さや、精巧な造りといい、これほどの壮麗な埴輪列は国内でも類を見ない。感嘆の声を上げる筆者に、宮崎さんは何度も、「大王の埴輪ですから」と胸を張る。まさしく、真に、そうとしか思えない。
復元された埴輪祭祀場では、子どもたちが馬や水鳥の埴輪に楽しそうに乗って遊んでいる。古代の一時代を風靡(ふうび)した大王が眠るであろう聖地でありながら、彼らを見守るように古墳はただ静かに佇む。
併設の高槻市立今城塚古代歴史館では、継体天皇の時代の歴史に触れ、巫女をはじめ、本物の埴輪たちに出合えるので、ぜひ訪れてみてほしい。
今城塚古墳の個性豊かな埴輪たち
鶏形埴輪
手前の二体は鳴き出す瞬間を捉えている。
家形埴輪
千木があり、入母屋式(いりもやしき)の建物は神殿ではないかという。
人物埴輪
左から鷹飼人(たかかいびと)、力士、武人。専門職の人々を表す。
器財埴輪
左から盾、大刀、甲冑。天皇の威容を表す威儀物かもしれない。
埴輪の線刻
一部の円筒埴輪に二本マストの船のマークが刻まれており、被葬者を象徴するブランドマークでは?といわれている。
\今月のナビゲーター/
今城塚古代歴史館 館長
宮崎康雄さん
1961年、大阪府生まれ。関西大学卒業。高槻市教育委員会埋蔵文化財調査センター所長、高槻市 街にぎわい部 文化財課 課長などを経て、現職。専門は弥生時代・古墳時代の墓、古代の道路。主な著書に「今城塚古墳の実像に迫る」(『継体天皇の時代』大阪府立近つ飛鳥博物館編)、「嶋上郡衙跡と今城塚古墳」(『歴史家の案内する大阪』文理閣刊)
写真提供:高槻市文化財課