430年前の同日には羽柴秀次に訓誡状を送っていた
今から425年前の慶長元年12月17日(現在の暦で1597年2月3日)、豊臣秀吉の3男・拾(ひろい)が元服して秀頼という諱を与えられました。
この日、大坂城には勅使が派遣されて秀吉と秀頼に祝いの品を下賜し、『義演准后日記』に「若公秀頼と号す」「(諸公卿と)諸国諸大名御礼ないし諸大夫以下数千人、その数を知らず、前代未聞の儀なり。進物の金銀、筆舌耳に述べ難し」とあるように、諸公卿諸大名らが祝賀の礼参に集まって空前の盛儀となりました。
しかし、その主役である秀頼はわずか満4歳。通常は現在の中学から高校くらいの年での成人式である元服を、こんな小児に実行するのですから、違和感はぬぐえません。
老齢によって自分の寿命がそう長くない事を予感している秀吉による、秀頼への継承を一日でも早く既成事実化しようという焦りのようなものが、このイベントの風景を蜃気楼のように空虚な、頼りないものに感じさせますね。
それだけではありません。西暦ではこの時からちょうど5年前の同日となる天正19年12月20日(現在の暦で1592年2月3日)には秀吉の甥・羽柴秀次が秀吉から4箇条の訓誡状を与えられていました。曰く、女遊びはほどほどにせよ、秀吉の真似はするな。自分の素行が良くないことを自覚している秀吉は、このとき甥の秀次に乱行を戒め、関白職を継がせたのでした。
しかし、文禄2年(1593)に秀頼が誕生すると、秀次は謀反の容疑を受け文禄4年(1595)7月15日に切腹させられてしまいます。そう、秀頼の元服は秀次の非業の死から1年半後、ようやく秀頼が乳児期を脱し、現代ならば幼稚園に通い始めるぐらいの社会性を備え始めたタイミングを待ちかねたようにおこなわれたのでした。
それによって秀次とその関係者の大粛清というケガレをはらい、隠滅を図ったのでしょう。
とはいいながら秀頼のおぼつかなさを知ってか知らずか、例えば公家の山科言経などは、前後の日記でこの一件については触れず、ひたすら徳川家康との行き来についての事しか記しておりません。