大國魂神社の参道も分断されていた!
近年、聖地鉄道に関わる大発見があった。それについて述べる前に、京王線の歴史について触れておきたい。
京王線の前身は京王電気軌道といい、都心と八王子を結ぶことを目的として設立された。大正2年(1913)に開業し、3年後には新宿から府中までの路線を完成させた。府中から先は子会社の玉南電気鉄道が敷設し、大正14年に府中~東八王子(現・京王八王子)で開業した。ところが、京王の府中駅と玉南の府中駅は接続していなかった――と、これまでは信じられていた。
玉南電気鉄道は補助金目当てに狭い軌間(レールの幅)にしていたため京王線と線路をつなぐことはできなかったのだが、駅そのものも離れていたというのだ。というのも、玉南電気鉄道が参道を横断して線路を敷くことを、武蔵国の総社(武蔵国のすべての神を祀る神社)である大國魂神社が許さなかったから、というのが定説であった。
ところが、府中市郷土の森博物館の調査により、この通説が誤っていたことがわかったのである。古地図や駅舎の図面より、玉南府中駅は参道を越えた東側にあり、京王線の府中駅と隣接していたことが明らかにされた。
「そんなことか」と言ってはいけない。少なからざる鉄道史の本がこの通説に従って府中駅の隔絶を述べ、大國魂神社の参道を越えるための京王の努力を語っていたのだ(その中には拙著旧作もある)。この発見はそうした通説を見事にひっくり返すものであった。
だが、筆者にとって衝撃だったのは、通説の否定よりも大國魂神社の参道も最初から分断されていたということであった。これまでは、大正天皇の御陵へ向かう鉄道を造るためという大義名分を得て、ようやく参道を横断できたといわれていた。ところが、実際には玉南電気鉄道があっさりと分断していたのだ。
(なお、京王線と聖地の関わりについては、拙著新刊『聖地鉄道めぐり』をお読みいただきたい)
ところが、府中市郷土の森博物館の調査により、この通説が誤っていたことがわかったのである。古地図や駅舎の図面より、玉南府中駅は参道を越えた東側にあり、京王線の府中駅と隣接していたことが明らかにされた。
「そんなことか」と言ってはいけない。少なからざる鉄道史の本がこの通説に従って府中駅の隔絶を述べ、大國魂神社の参道を越えるための京王の努力を語っていたのだ(その中には拙著旧作もある)。この発見はそうした通説を見事にひっくり返すものであった。
だが、筆者にとって衝撃だったのは、通説の否定よりも大國魂神社の参道も最初から分断されていたということであった。これまでは、大正天皇の御陵へ向かう鉄道を造るためという大義名分を得て、ようやく参道を横断できたといわれていた。ところが、実際には玉南電気鉄道があっさりと分断していたのだ。
(なお、京王線と聖地の関わりについては、拙著新刊『聖地鉄道めぐり』をお読みいただきたい)
円覚寺も鶴岡八幡宮も住吉大社も!
鉄道黎明期、鉄道事業者は少しでも乗客を増やそうと有名寺社の門前に路線を近づけ駅を造るいっぽう、できるだけ最短距離で目的地へ線路を敷こうと寺社の境内や参道にもずかずかと線路を敷いていった。
たとえば、鎌倉の円覚寺は総門前の白鷺池がJR横須賀線によって境内から分断されている。この池は鶴岡八幡宮の神霊が白鷺となって出現したという霊地で、かつては池の前の冠木門が俗界との境界になっていた。
横須賀線はさらに鶴岡八幡宮の参道も分断している。
鶴岡八幡宮の参道であり鎌倉のメインストリートである若宮大路の中央には、段葛という一段高くなった部分がある。北条政子の安産を祈願して源頼朝が御家人に造らせたもので、かつては浜に近い一の鳥居まで続いていた。ところが、横須賀線を通すのに邪魔だということで、二の鳥居のところまで撤去されてしまった。
被害は住吉信仰の総本社である大阪の住吉大社でも起こっている。
あまりに堂々と行われているので気づかない人が多いのだが、住吉大社の表参道は阪堺電車と南海本線で二重に分断されている。より正確にいえば、南海の住吉大社駅の東側にある住吉公園あたりまで住吉大社の境内であったが、明治6年(1873)、政府の命によりこの一帯は公園とされ、その後、公園の一部を削って南海本線や阪堺電車の線路が敷かれたのである。
住吉公園の潮掛け道に立ってみるといい。南海本線の住吉大社駅が表参道の上にそびえていることがよくわかる。
こうした例は挙げればきりがなく、調べてみればどの路線にも一つや二つ、なにかしら見つかると言っても決して大げさではない。(もちろん地下鉄は除く)。
寺社の対応もさまざまだった。群馬県高崎市の山名八幡宮は参道を上信電鉄の線路の下を通るように作り変えたが、福井県小浜市の常高寺は山門前の古い参道を通行止めにして新しい参道を造った。江ノ電沿線の御霊神社や満福寺のように、踏切を渡らなければ参拝できない寺社も多い。
源義経が腰越状を書いたことで知られる腰満福寺の門前を横切る江ノ電
共生する鉄道と寺社
こうした事態は寺社にとって死活問題であった。景観やアクセスの悪化により参詣者の減少に直面したところもあれば、移転を余儀なくされたところもあった。
そんな中にあって、鉄道との共生を試みた神社があるので、最後にそれをご紹介したい。
まず、大阪府寝屋川市の萱島神社。この神社は京阪本線萱島駅のホーム下にあり、その御神木は駅のホームと屋根を貫いている。
ことの発端は京阪本線の複々線化計画であった。萱島神社がその予定地に入り御神木も伐採されることになったのだが、地元の強い反対を受け、御神木を取り込む形で駅を建て替えることになったのである。昭和55年(1980)のことだ。
その結果、クスノキの葉が屋根の上でこんもり茂り、その下を電車が行き来する駅ができることになった。まるでファンタジーの一場面のようだ。
いっぽう東京都北区の赤羽八幡神社は新幹線が境内の下を走っている。
赤羽八幡神社は武蔵野台地の東北端に鎮座しており、周囲から20メートルほど高いところにある。地域を守る神社にふさわしい場所であるが、東北・上越新幹線が計画されるとここがルートにかかってしまった。
境内の下を掘るということに対して当初は反発が強く、反対運動も起こった。しかし、迂回が難しいこともあり、本殿の下を避けることで合意が成立、昭和60年(1985)に開業に至った。
前代未聞とまで言われた出来事であったが、それだけに話題にもなり、海外からの取材も受けるようになったという。そして、境内から新幹線が見える神社ということで、子連れの参詣者が増えるという嬉しい効果もあったそうだ。
ちなみに、前述の山名八幡宮は上信電鉄が電化された大正13年(1924)頃、祭礼の時には最寄りの山名駅の乗降者が1万人を超えたというから、鉄道・神社ともに路線通過のメリットはあったといえるだろう。