廃止直前の国際列車「チザルピーノ52号」に乗車
2009年夏。旅程の都合で、イタリアからドイツまで一気に移動することになり、それも空の旅ではなく酔狂にも列車に乗り、丸一日かけて旅をした。日本からローマ経由でヴェネツィアに着いたのが夜遅い時間。翌日は朝8時32分発の列車に乗る予定だったので、ヴェネツィアとは言っても観光地のヴェネツィア本島ではなく対岸のメストレ駅前のホテルに投宿した。
朝、ヴェネツィア・メストレ駅のホームで待っていると、イタリア北東部にありスロベニアとの国境の街トリエステ始発のバーゼル行き国際列車「チザルピーノ52号」がやってきた。当時のヨーロッパの国際列車では珍しく機関車牽引列車ではなく振り子式電車特急だ。何とチザルピーノは2009年限りで廃止になってしまったので、このときが最初で最後の乗車だった。
あらかじめ取ってあった指定券を見ると1号車とある。到着時は最後尾だったが、この駅で進行方向が変わるので、8時32分に発車すると先頭車になった。電車なので、運転台の背後からかぶりつきができるのが嬉しい。車内は空いていたので、他の乗客と競うこともなくゆったりと前面展望が楽しめた。
列車は、ひろびろとした平原の中に敷かれた複線の線路を走る。野外オペラや「ロメオとジュリエット」ゆかりのヴェローナに停まったあと、デセンツァーノ、ブレシアを経てミラノに向かう。右側には小高い丘陵があり、イタリアらしい風景の中で、教会が列車を見下ろすかのように丘の頂に建っている。
大きなドームに覆われたミラノ中央駅では25分も停車する。時間があるので、気分転換を兼ねてホームに降りる。駅構内の雑踏や列車が発着する音、案内放送を耳にしながら独特の雰囲気を味わう。
「チザルピーノ」は再び進行方向を変え、1号車は最後尾となる。ミラノ市街を抜け、田園地帯をしばらく走ると、右手に陽光きらめくマジョーレ湖が見えてきた。タイミングよく食堂車にいたので、良い眺めの中でランチを摂ることができ、至福の時間が過ぎていく。
列車は迫ってくるアルプスの山々を見上げながら進み、渓谷に沿って走ると12時43分、ドモドッソラ駅に到着。イタリアとスイスの国境駅なので5分停車する。「チザルピーノ」は電車なので、機関車交換はなく、乗務員の交代だけで発車。いくつかの短いトンネルを抜けた後、イタリア最後の駅イゼッレを通過すると、アルプスを貫くシンプロン・トンネルに吸い込まれるように突入した。
1906年に開業した全長20㎞近いこのトンネルは、1982年に上越新幹線の大清水トンネルができるまでの76年間は世界一の長さだった。その後は新幹線の長大トンネルが相次いで貫通したためシンプロン・トンネルはすっかり目立たなくなっている。トンネルを10分ほどかけて抜けると、そこはスイス領内のブリーク駅だ。
ブリークで4分停車すると、いよいよスイス鉄道の旅が始まる。快晴だったので、沿線の山々やふもとの牧歌的な情景がことのほか美しく流れていく。大きな駅には貨物列車が停まっていて、このルートは旅客輸送のみならず、ヨーロッパの南北をつなぐ物流の重要な動脈だということが実感として理解できる。
山々に囲まれたトゥーン湖が見えてくるとシュピーツ駅に到着。発車後しばらくトゥーン湖畔を走った後は、なだらかに起伏する丘陵地帯を通り、街中に入って渓谷を渡るとスイスの首都ベルンの中央駅に到着だ。新しい駅のようで天井が低くて薄暗い構内である。10分ほど停車したのでホームに降りてみたけれど、見通しが悪く、他の列車の発着する様子もはっきり見えないのですぐに車内に戻った。
これまでの絶景を堪能したあとだったので、ベルンから先の車窓はそれほど印象に残っていない。住宅や建物、工場などが雑然と点在する都市近郊の風景だったからであろう。オルテンを経由して1時間近く走ったあと、15時32分、ほぼ定時にフランスとドイツの国境に接したターミナルであるバーゼルSBB駅のホームに滑り込んだ。ヴェネツィア・メストレ駅を出てちょうど7時間。長旅ではあったけれど、北イタリアからスイスにかけての絶景に目を奪われ続けたので、それほど長くは感じない道中であった。
映画「カサンドラ・クロス」のロケでも知られたバーゼルSBB駅で40分ほど休んだ後、ドイツのフランクフルトへ向けて高速列車ICEに乗車した。この日の旅はまだまだ続くのである。