このシリーズは、考古の世界への旅の先達、専門ナビゲーターとして、毎回、考古学の専門家にさまざまなアドバイスをお願いしています。今回の先達は、滋賀大学名誉教授の小笠原好彦先生です。文中に先生のコメントも登場しますのでお楽しみに…!
広島県内最大規模の大きさを誇る、三ッ城古墳(みつじょうこふん)
東広島市にある三ッ城古墳群は、広島県中部・西条盆地の南にある丘陵を利用して築造された3基の古墳からなる古墳群だ。古墳は保存のため、復元されて、周囲は美しい公園として整備されている。
最も大きい三ッ城第一号墳は、葺石が葺かれ、テラスには埴輪がずらりと並んで、築造当時を彷彿とさせる。もりもりの森になってしまっている自然任せ系の古墳と違って、人の手が加わっている感はあるが、復元された古墳は、古墳のありし日の栄光の姿を見るようで、また、地元の人々が古墳をきちんと残そうとした誇りを感じる。
第1号墳は、墳丘長約92mの前方後円墳で、5世紀の前半頃に築造された。近寄ると見上げるようなボリューム感があり、左右のくびれ部分には造り出しがある。
墳丘は三段に築かれていて、それぞれの段の上には、円筒埴輪や朝顔型埴輪、さらに前方部に鶏や馬、盾、靱(ゆき:矢を入れる筒のこと)、冑、短甲などの形象埴輪が立てられ、また、衣蓋形埴輪(古墳時代の羽根飾りのついた日傘をモデルにしたものなど、古墳全体で約1800本余りの埴輪で埴輪列が再現されている。
周溝(空濠)が周囲に巡らされ、とにかく堂々とした、風格ある古墳である。これだけの規模、埴輪の数を擁し、寄り添うように第2号古墳、第3号古墳があり、まさしく、古代の安芸の国の大豪族、地域の王の墓と考えていいだろう。
登って見ると、高さが13mもあるせいか、周りの街を見下ろす感が半端ない。こちらもおおらかな、なんだか堂々とした気分になってくる。
すぐ近くにある三ッ城第2号古墳は、直径約25m、高さ約4mの円墳で、墳丘斜面には葺石はあったようだが、埴輪は見つかっていない。頂上には箱形石棺らしき埋葬施設が1基あったようだが、失われてしまったらしい。第二号墳の方が5世紀の前半築造で、第1号古墳よりも先に造られている。初代より、二代目が力を持って地域を発展させたのかもしれない。三ッ城第3号古墳は楕円形の形をしていて、長径が約8m、短径約4m、高さ約1mの古墳だが、その墳形は少しわかりにくい。
一号墳の県内でも類例をみない規模を誇る大きさ、ヤマト王権との強固なつながりを感じさせる墳形=前方後円墳などから、この被葬者は相当の存在力があったと思える。それまで地域ごとにまとまっていた小規模〜中規模の勢力を、広域的に一つの大規模な勢力に束ねるリーダーが台頭してきたのではないだろうか。勢力図を大きく書き換えたこの人物は、出雲と吉備、そしてヤマト王権という最強の勢力の間(はざま)にいるという微妙な立場をよく知り、恵まれた河川を活用して、生き延びる道を模索していたのかもしれない。
古くから三ッ城古墳の被葬者は「国造本紀」に出てくる「阿岐国造(あきくにのみやつこ)」ではないか?と言われているそうだ。広島各地の地域首長をまとめ、阿岐国を成立させた大リーダーの存在が、この地を7世紀後半の古代安芸国へと発展させていったのではないだろうか。
類まれなリーダーの古墳は、今もなお、壮大な姿を誇らしげに見せて、何体もの埴輪に守られて、静かに佇んでいた。
小笠原先生のコメント
三ツ城古墳は、東広島市の西条に築かれた100mには少したりないが、じつに雄大な前方後円墳です。しかも現状は、3段に葺石され、各段に円筒埴輪列がめぐって復元されています。また、発掘された埋葬主体部の箱式石棺もガラス越しに見ることができます。まさに5世紀前半の安芸の王者という存在です。
しかし、安芸の最大の有力首長墳が100mを越えていないのはなぜか、埋葬主体部に竪穴式石室を採用しなかったのはなぜか、など考えてみることが、5世紀前半の安芸の地域と大和政権との関係を考えるポイントになるのではないか?と思います。
沼田川(ぬたがわ)流域の終末期古墳へ
5世紀にピークを迎えた大型の前方後円墳の築造は、だんだんと減り、6世紀末頃から方墳や円墳へと姿を変えていった。その後、切石截組積といわれる精緻な横穴式石室や横口式石槨が築造されていく。こういった古墳を終末期古墳と呼ぶが、沼田川流域にも魅力ある終末期古墳が点在している。
安芸の終末期古墳の中では、飛鳥の岩屋山古墳に代表されるすっきりと精美な「岩屋山式石室」を踏襲したものとして、7世紀半ば頃に築造の御年代古墳(みとしろこふん)がある。
古墳の形は崩れていてはっきりしないが円墳と考えられている。石室内部は花崗岩の切石を積んだすっきりとしたデザインで飛鳥の岩屋山古墳の石室を思い出す。
この石室は後室、前室の2室があり、各室に花崗岩の刳抜式家形石棺が納められている。
2基、ギッチリと並んだ石棺は見応え満点!優美な石室や、金環、金銅製馬具、須恵器などの出土品、見るからに豪壮な家形石棺などから、被葬者はヤマト王権との強いつながりがあったはずだ。畿内でも一部の有力者にしか造れなかった岩屋山式石室を模した造りといい、相当有力な人物だったはずだ。
貞丸古墳1号墳は、御年代古墳の西南約500mの丘陵斜面に築かれた円墳。横穴式石室で羨道部が大きく破壊されており、玄室がすぐ見える。特徴的なのは、南端の両側の石が柱状に立てられていて、鴨居状の石がわたされていることで、その先が羨道(せんどう)ではなく前室だった可能性もあるらしい。
この石室には凝灰岩製の刳抜式(くりぬきしき)家形石棺の身がおかれている。蓋の所在はわからないが、この凝灰岩は竜山石で、播磨から運びこまれたと考えられる。贅沢な石を使っていることからも地域の有力者が被葬者だったと想像しやすい。7世紀前半頃の古墳で、御年代古墳より少し早い年代に築造されている。
梅木平(ばいきひら)古墳は御年代古墳、貞丸古墳に程近く、丘陵の東側の端に築造された古墳。墳丘が崩れていて規模は不明だが、円墳と考えられる。両袖式の石室で、頭を下げ気味に羨道部を進んでいくといきなり玄室が広がる。高い!大きい!天井部の高さの差がここまであるとは…!現存の石室の全長は13.25m、奥壁の幅3.02m、高さ4.21m。天井は見上げるほどで、県内最大規模の横穴式石室というのもうなずける。羨道が破損していることを考えると全長はさらに長くなる可能性がある。
石棺は失われているが、おそらくこの古墳にも竜山石の刳抜式家形石棺が納められていたのではないかと言われているそうだ。
石室の構造が素晴らしい。奥壁には横長の巨石を、どんどんどんと3段に積んであり、奈良の赤坂天王山古墳との類似があるという。男らしさを感じさせる勇壮な石室だ。7世紀初頭前後の古墳と推定され、こちらも中央政権との強い結びつきを感じさせる。
何度見上げても、この石室はため息が出るほど素晴らしい。どの地域にも天才的な石工がいたのか、はたまた各地に天才石工の技師がヤマトから派遣されたのか?これもまた想像をたくましくしてしまう。
このように沼田川流域の狭い地域に、立派な家形石棺を納める特色ある横穴式石室を持つ古墳が点在している。それぞれ中央との強い結びつきがあったという示唆に富んでいて、個性的で魅力がある。
ヤマト王権がこの地域を重視したことは間違いないと思う。安芸は古代から瀬戸内航路の中継地点であり、また甲立古墳の存在からもわかるように、日本海と瀬戸内ルートを結ぶ重要な交通の要衝だったのだろう。さらに沼田川を挟んで、隣の備後の国との境目に位置していることにも注目したい。
海と河川によって分けられる境界線。その線上に位置する安芸国は、水運を活用しつつ、「日本海文化」と、「瀬戸内―ヤマトの文化」がぶつかる接点でもあった。
今回は安芸国の古墳について書いたが、広島県の三大前方後円墳には甲立古墳、三ツ城古墳(いずれも安芸国)、そして二子塚古墳(備後国)の3基が挙げられる。小国がまとまって大国が成り立っていく中で、この三大前方後円墳は、ヤマト王権が国をまとめていく大きなうねりの中で、地理的に非常に重要な場所に築造されていることに気づかされる。
「安芸国」と「備後国」は古代の律令国家の地方組織として成立したが、それより前、古墳時代に、すでに独自の文化を持つ2つの地域に分かれていたことがとても面白い。
古代から人と物資と文化が行き交う交流の場所。広島の新たな魅力を古代から教えてもらったように思う。
小笠原先生のコメント
沼田川流域の三原市本郷町には大規模な横穴式石室の梅木平古墳、横穴石室に家形石棺をおさめた御年代古墳、貞丸古墳という6世紀末から7世紀前半の古墳が築造されています。これらは、飛鳥の古墳と深いつながりをもって造られた古墳であることがよくわかります。この本郷町には7世紀後半に建立された横見廃寺があります。この横見廃寺には、飛鳥の檜前寺跡に葺かれた火炎文単弁軒丸瓦と同笵のものが葺かれており注目されています。
近年、広島県の妹尾周三氏の研究によると、『日本書紀』白雉元年(650)に、倭漢県氏が百済船三隻を造るため安芸国へ派遣されたことを記しており、このとき沼田川流域の船木郷を本拠とする在地の有力氏族とつながりが生じたと推測しています。そして、これがもとで在地の有力氏族が横見廃寺を造営した際に、倭漢県氏(東漢氏)の氏寺である檜前寺から火炎文単弁蓮華文軒丸瓦の笵型が提供されたことが明らかにされており、この地域が飛鳥の朝廷と深いつながりがあったことが、古墳にもあらわれているのだと思います。
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