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古墳時代そのままの景観が眼前に… !西都原(さいとばる)古墳群で思いっきり〝古墳浴〞&〝歴史浴〞!【古墳ライターが旅した、見た、聞いた!vol.4】


広大な台地に350年にわたって脈々と古墳が築かれてきた西都原古墳群全景。Ⅰ期(3世紀後半~5世紀前半)、Ⅱ期(5世紀前半~中期)、Ⅲ期(5世紀後半~6世紀前半)、Ⅳ期(6世紀中期~7世紀初頭)に分かれて分布する

350年にわたる壮大な古墳築造の歴史

広い…!一面、ふかふかの緑の絨毯を敷き詰めたような台地に、ぽこぽこと、どこまでも緑の高まりが続く。『さいとばる』、このエキゾチックな響きに憧れて、とうとうここまでやってきた。

宮崎県・西都原古墳群は標高60~70mの台地上に、南北4.2㎞、東西2.6㎞にわたって約320基の古墳が確認されており、32基の前方後円墳が存在する。

今回のナビゲーターの東憲章氏は同古墳群の発掘調査から、研究と叡智を集めた西都原考古博物館の創設まで、まさにこの古墳群とともに研究人生を歩んできた人だ。

「西都原古墳群は3世紀後半から7世紀前半まで、3350年にわたって古墳が築造され続けました。これらの古墳を一つの系列の首長(しゅちょう/リーダーのこと)の墓と捉えることには無理があり、地形や古墳の分布状況から考察して、11~13の単位に区分けされることがわかり、これらを『支群』と呼んでいます」

押さえておきたい見どころを紹介しよう。

■13号墳(第一A支群・4世紀築造)

すっぽりと緑に覆われ、南北に主軸を取る、墳丘長79.4 mの柄鏡型前方後円墳(えかがみがたぜんぽうこうえんふん)だ。横たわる姿がじつに美しく、品格さえ感じさせる。後円部横の扉を開けて中に入ると、なんとそこには発掘当時のままの姿の埋葬施設が残されているではないか…!

粘土槨(埋葬施設)の棺床(かんしょう)には微かに朱(ベンガラ)が見て取れ、レプリカの三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)が鎮座している。竪穴系の埋葬施設を見るという貴重な体験は感動ものだ。

13号墳は葺石に覆われており、三角縁神獣鏡や多数の玉類が出土した
13号墳の埋葬施設は、全体が礫(大小の石)に覆われた長さが8.1mに及ぶ粘土槨で、舟形木棺の一部と見られる木片が見つかった

■男狭穂塚(おさほづか)古墳・女狭穂塚(めさほづか)古墳(丸山支群・ともに5世紀前半築造)

台地の中央部、深いこんもりとした森の中に九州最大の前方後円墳、女狭穂塚古墳と、それに寄り添うように全国で最大の帆立貝形古墳、男狭穂塚古墳が並ぶ。ともに176mと全く同じ墳丘長で、互いに接しないように緻密に造られていることから、同時期に企画・設計された古墳だと考えられている。地元には古事記に登場する瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)と木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)の墓では?と、天孫降臨(てんそんこうりん)にまつわる伝承があるが、2基とも”陵墓参考地(被葬者が特定出来ないが陵墓、つまり皇族の墓である可能性が高い墳墓のこと)”として宮内庁によって管理されている。

築造時期からみて、被葬者は一体、誰なのだろう。

「女狭穂塚古墳の被葬者は、日向(ひむか)の出身とされる仁徳天皇妃の髪長媛(かみながひめ)であり、すると隣の男狭穂塚古墳はその父で日向の盟主であった諸県君牛諸井(もろかたのきみうしもろい)ではないかという説があります。女狭穂塚古墳が古市古墳群(大阪府)にある、応神天皇の妃の墳墓といわれる仲姫命陵古墳(なかつひめのみことりょうこふん)と全く相似形の墳形であることから、ヤマト王権との深いつながりを想像できますし、天皇妃である髪長媛を最高位の前方後円墳とし、諸県君牛諸井は父ではあるけれど、位は娘より低いため、帆立貝形古墳にしたのではないか?という推測も成り立ちます」

当時、嫁いだ女性は亡くなると実家に戻って埋葬されたという説もあり、一つひとつが納得のいく考え方といえる。2基の大型古墳は多くの謎を秘めて、深い森の中にただ静かに佇んでいる。

地中レーダー探査で男狭穂塚古墳の正確な墳丘長が判明し、女狭穂塚古墳と全く同じということがわかった。近接した状況から密接な関係性が伺える
男狭穂塚古墳・女狭穂塚古墳の3基の陪塚の一つ、170号墳から、全国でも非常に珍しい子持ち家形埴輪と、船形埴輪が出土した

■206号墳(鬼の窟(いわや)古墳・第一A支群・6世紀末築造)

ぽっかりと緑の海の中に浮かぶ、まあるい古墳は、見ているだけで気持ちがいい。巨石を用いた畿内型の横穴式石室を持つ唯一の円墳で、石室に入ることができる。

二重の周溝と高い周堤を持つこの古墳は、西都原古墳群最後の首長墓に位置づけられている。

「窟を鬼が一夜にして造った」という地域の伝承がある206号墳(鬼の窟古墳)
206号墳(鬼の窟古墳)の石室

海運と軍事力で拓いた雄国への道。陽光きらめく日向の礎を見る

また、5世紀前半から7世紀前半にかけて、南九州のみに見られる、地下式横穴墓(四号地下式穴墓で見学可)が造られるようになる。鬼の窟古墳以降、小規模な円墳や地下式横穴墓が築かれつつ、やがて西都原古墳群は終焉を迎える。しかしこれだけの巨大古墳群を造った古代・日向は、なぜそんな強大な力を持つことができたのだろうか。

「まずは海運ですね。当時、北部九州のみならず、いくつもの大陸とのルートがあったはずで、南からの重要ルートの要衝が日向だったと考えられます。そして、もう一つは軍事力。たとえば百済(くだら)の援軍として半島に軍を送り込む際に、ここ南部九州からも、勇猛果敢な兵が数多く送り込まれたのではないでしょうか。これらを背景にして、男狭穂塚古墳・女狭穂塚古墳の時代をピークに、西都原の首長は古代・日向の大盟主となっていったのでしょう」

 さまざまな古墳に登って周囲を見渡すときの高揚感と爽快感!遮る建物などなく、緑豊かな森の向こうに山々の峰が続き、太古と変わらぬ景色を見せてくれる。古代人も同じ景色を見たはず…と思うと、ふつふつと感動が湧き上がってくる。この景観の保護に、官と地元の人々が一体となって取り組んできたおかげといえる。西都原古墳群は各時期、各種類の古墳を一堂に体感できる、まさに古墳の博物館なのだ。陽光きらめく古代・日向の人々の力強い息吹に浸りながら、思い切り、 〝歴史浴〟が、そして筆者にとっては〝古墳浴〟ができる場所なのである。

宮崎県立西都原考古博物館

遺物や調査結果を見るだけの場所という位置づけを遥かに超え、考古学を通して哲学や精神世界にまで深く触れることができるフィールドミュージアム。常設展を置かず、常に新しい=「常新」というコンセプトのもと、最新の調査研究結果をアップデートして提供している。東氏は長年、共に西都原古墳群を調査研究してきた先輩の故・北郷泰道氏とともに、同館の創設に携わった。

宮崎県立西都原考古博物館
住所:宮崎県西都市大字三宅字西都原西5670番
TEL:0983-41-0041 
開園時間:9:30~17:30(入室は17:00まで) 
入館料:無料 
休館日:月曜休館

\今月のナビゲーター/

宮崎県埋蔵文化財センター 副所長
東憲章(ひがしのりあき)さん

1966年、宮崎県生まれ。筑波大学第一学群人文学類(考古学)卒業。宮崎県立西都原考古博物館学芸普及リーダー・主幹を経て、現職。長年、西都原古墳群の発掘・調査・研究に携わる。主な著作:『古墳時代の南九州の雄 西都原古墳群』(シリーズ遺跡を学ぶ121 新泉社)、「地下式横穴墓」(『古墳時代の考古学』3 同成社)、『生目古墳群と日向古代史―宮崎平野の巨大古墳が語るもの』(共著、鉱脈社)など。


写真提供:西都原考古博物館(古墳群全景、男狭穂塚古墳・女狭穂塚古墳、博物館外観、埴輪)

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郡 麻江

こおり・まえ 古墳ライター。 時々、添乗員。京都在住。得意な伝統工芸関係の取材を中心に、「京都の人、モノ、コト」を主体とする仕事を続けながら、2018年、ライフワークと言えるテーマ「古墳」に出会う。同年、百舌鳥古市古墳群(2019年世界遺産登録)の古墳ガイドブック『ザ・古墳群 百舌鳥と古市89基』(140B)、『都心から行ける日帰り古墳 関東1都6県の古墳と古墳群102』(ワニブックス)、『巨大古墳の古代史』(共著・宝島社新書)、『中公ムック 日本百名墳』(中央公論新社)などを取材・執筆。古墳や古代遺跡をテーマに、各地の古墳の取材活動を続ける。その縁で、添乗員の資格を取得。古墳オタクとして、オン・オフともに全国の古墳や遺跡を巡っている。日本旅のペンクラブ会員。

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