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ひとつの国としてまとまり、発展した5世紀。遺物からひもとく、古代・倭国の外交とは…?【古墳ライターが旅した、見た、聞いた!vol.10】

中国の歴史書である『宋書』に登場する倭国(古代日本)の5人の王たち。ヤマト王権のトップとして、列島の統一をはかり、外交的にも安定を求めた彼らは、刻々と情勢が変わる半島や大陸の影響を受けながら、難しい外交の舵取りを担ったと考えられている。数々の遺物から、当時の海を越えた壮大なつながりを探っていく。


錯綜する東アジア情勢を背景に微妙で巧妙な外交手腕を発揮?

「百舌鳥・古市古墳群【注1】(大阪府)が成立した5世紀頃は、ヤマト王権が中央集権的な体制を強め、倭の五王(ごおう)が活躍した時代と重なります。どの王がどの古墳の被葬者かは諸説ありますが、この時代、大陸から朝鮮半島にかけての情勢がくるくると変わり、“昨日の敵は今日の友”というような非常に複雑な状況が続いていました。倭の五王たちも外交において常に複雑な判断を迫られていたと思います」と、堺市博物館学芸員の橘泉さん。

倭の五王とは、中国の『宋書(そうじょ)』に記された、5人の歴代の倭国王のことをいう。讃(さん)・珍(ちん)・済(せい)・興(こう)・武(ぶ)の5人で、宋に対して活発に外交を行ったと記されている。

「『宋書』の記載を読むと、倭の五王が宋に再三、遣使をし、称号を求めたとあります。それは、複雑な国際情勢の中で、倭国王たちが国際的な地位を高め、国内をさらに安定させたいという思いがあったからだと考えられます」

日本最大の前方後円墳、墳丘長500mを超える百舌鳥古墳群の仁徳天皇陵古墳(写真提供・堺市)。応神天皇陵古墳含め、これだけの巨大な古墳を築造する力を持った王=日本のトップがいたことを示している(ともに5世紀の築造)。
墳丘長425m、第2位の大きさを誇る古市古墳群の応神天皇陵古墳(写真提供・羽曳野市教育委員会)。

国内外に残る遺物が語る他国との交流の変遷

橘さんによると当時の半島を分けていた高句麗(こうくり)、百済(くだら)、新羅(しらぎ)、伽耶諸国(かやしょこく)などの国々は、倭国と敵対する時期と、逆に友好的に交流する時期が交差していたらしい【図1】。百舌鳥・古市古墳群にも、東アジア各国との関係を今に伝える渡来系の遺物が多数、残されている。

【図1】5世紀の大陸と朝鮮半島の国々

「2世紀ごろから中国では、威信財(いしんざい/ステイタスシンボル)としての銅鏡(どうきょう)が鉄鏡(てっきょう)へと変わっていきました。大塚山(おおつかやま)古墳(百舌鳥古墳群・消滅古墳)からは鉄鏡が見つかっています。また、応神天皇陵(おうじんてんのうりょう)古墳と縁深い誉田丸山(こんだまるやま)古墳(古市古墳群)からは、華麗な装飾の金銅透彫鞍金具(こんどうすかしぼりくらかなぐ)が2組、見つかっています。これらは中国の三燕(さんえん)からもたらされたという説があり、古墳の被葬者と中国との繋がりが推測できます」

また、七観山(しちかんやま)古墳や城ノ山(じょうのやま)古墳(ともに百舌鳥古墳群)からは新羅との関係をうかがわせる美しい帯金具(おびかなぐ)が出土している。

七観山古墳の帯金具の龍の文様は、新羅の林堂洞(いむたんどん)7B号墳(韓国)から出土した帯金具と類似している(写真提供・堺市博物館)
城ノ山古墳の帯金具の金具を非常に薄く加工する技術もまた、新羅の影響が濃厚だという(写真提供・堺市博物館) 

さらに、明治時代に発見された仁徳天皇陵古墳の前方部石室からローマンガラスが見つかったという記録がある。ローマ帝国でつくられたというローマンガラスだが、数多くのローマンガラスが出土ている新羅を介して倭国に伝わったのではという説がある。

仁徳天皇陵古墳にあったとされるローマンガラスの復元品(写真提供・堺市博物館)

倭国と新羅は4〜6世紀にかけてほぼ敵対していたといわれているが、七観山古墳の帯金具やローマンガラスなどの出土をみると、新羅と敵対していた時期だけではなく、交流していた時期もあったのではという推測も成り立つ。

複雑な国際情勢を読み、舵取りをした倭国王たち

また、5世紀の古墳の副葬品(ふくそうひん)として、鉄製の武器や武具など、軍事に関わるものが目立ってくるが、その一つに独特のデザインの襟付短甲(えりつきたんこう/胸腹部の前後を防御する鎧の一種)がある。大塚山古墳(前出)や野中(のなか)古墳(古市古墳群)から見つかっているが、当時の日本では、武器製造のための鉄は主に半島南部の伽耶諸国から入手していたようで、ここから、倭国と伽耶諸国とのつながりも見えてくる。さらに倭国の軍事力の存在が見て取れる。

大塚山古墳から出土した襟付短甲。同古墳からは多数の鉄製の武器・武具が発見された。これらの甲冑を身につけた倭国軍が海を渡っていったのかもしれない(写真提供・堺市博物館)

「東アジアとの交易の中で、日本から渡っていったものにヒスイの勾玉(まがたま)があります。珍重されたようですが、ヒスイだけでギブアンドテイクのバランスが成り立っていたとは思えません。おそらくですが、東アジアの主に半島の国々は倭国に対して、物資に加えて軍事力も求めたのではないかと考えられます」

橘さん曰く、どの国を軍事支援するかについては、倭国側に考慮の余地があったのではないかというのだ。

「百済などは南下してくる高句麗への脅威から倭国の軍事力の後ろ盾が早急にほしかったはずです。他の国も倭国の軍事力が後ろ盾になってくれることは重要だったでしょう。倭国としては、どの国を支援するのか熟慮し、倭国にとって良い選択となるように動いていたのかもしれません」

しかし、倭国の王とて、うかうかとはしていられなかった。半島や大陸の情勢を常に正確に見きわめる必要があったし、国内的には九州や吉備(きび/岡山県)などの雄国(ゆうこく)の勢力への警戒もあり、列島内の平定という目標もあったという。

「国際間で常に難しい判断を迫られた倭の五王たちは、絶妙な舵取りで外交という大波を乗り切っていたのでしょう。倭国は単なるアジアの東の端の島国ではなく、東アジア状勢にも大きな影響を与える存在だったのかもしれません」

百舌鳥・古市古墳群の巨大古墳のどれかに眠っているかもしれぬ倭の五王たち。時に敵対し、時に友好的になるという複雑な関係の諸外国に対して、軍事力を提供するという選択権を駆使して、自国に有利に外交を展開したのかもしれない。今も堂々たる姿を見せる巨大な墳丘(ふんきゅう)に、歴史の大激流を乗り切っていった勇気ある倭国王たちの姿が重なる。

堺市博物館

百舌鳥古墳群の中に位置する堺市博物館では古墳時代をはじめとする堺市の歴史を知ることができる。とくに世界遺産に登録された百舌鳥古墳群の常設展は見応えがある。博物館の遠景に点々と古墳が見える。

住所:大阪府堺市堺区百舌鳥夕雲町2
☎072-245-6201
開館時間:9:30~17:15(入館は16:30まで)
休館日:祝日を除く月曜、年末年始
料金:大人200円

\今月のナビゲーター/

堺市博物館学芸員
橘 泉さん


1988年奈良県生まれ。大阪大学大学院文学研究科修了。八尾市立しおんじやま古墳学習館、水口歴史民俗資料館を経て、堺市博物館で勤務。専門分野は日本考古学。主な研究報告に「盾持人埴輪の形態的変遷」、「百舌鳥夕雲町遺跡出土 須恵器器台の検討」、「乳岡古墳出土衝立形埴輪について」など。


【注1】百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群:堺市の「百舌鳥」、羽曳野(はびきの)市・藤井寺市の「古市」の2つからなる古墳群で、2019年、世界遺産に登録。

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郡 麻江

こおり・まえ 古墳ライター。 時々、添乗員。京都在住。得意な伝統工芸関係の取材を中心に、「京都の人、モノ、コト」を主体とする仕事を続けながら、2018年、ライフワークと言えるテーマ「古墳」に出会う。同年、百舌鳥古市古墳群(2019年世界遺産登録)の古墳ガイドブック『ザ・古墳群 百舌鳥と古市89基』(140B)、『都心から行ける日帰り古墳 関東1都6県の古墳と古墳群102』(ワニブックス)、『巨大古墳の古代史』(共著・宝島社新書)、『中公ムック 日本百名墳』(中央公論新社)などを取材・執筆。古墳や古代遺跡をテーマに、各地の古墳の取材活動を続ける。その縁で、添乗員の資格を取得。古墳オタクとして、オン・オフともに全国の古墳や遺跡を巡っている。日本旅のペンクラブ会員。

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