関ヶ原合戦の直前に行われた人質政策
今から422年前の慶長5年1月25日(現在の暦で1600年3月10日)、細川忠興が、息子の光千代を江戸に送る。
光千代は後に肥後熊本藩主となる忠利ですが、この時はまだ15歳。
『細川家記』には「江戸へ御証人として大坂御発足」とありますが、証人というのは人質のこと。
そうです、光千代は江戸を本拠とする徳川家康に預けるため、大坂の細川屋敷から江戸へ送り出されたのです。
豊臣政権内部で徳川家康と反対派との軋轢が深まる中、忠興は諸侯に先駆けて息子を家康への人質として差し出したわけです。
前田利家未亡人のおまつが江戸へ赴いたのが6月ですから、忠興の素早さはそれに半年近くも先行していました。
この日、京大坂は快晴。小春日和の中、魁の人質として東に向かう光千代の心は不安で一杯だったでしょう。
こうして江戸入りした光千代に対し、半年後にいよいよ関ヶ原決戦が迫ってくると忠興は「秀忠様が出陣するとの事だが、お前も御供せよ。御供が許されなければ、『夜をこめ、二里も三里も御先へ出、御陣着ごとに御陣屋へ見まわれ候ようになりとも』せよ、そうすれば結局従軍を許されるだろう」と指示を発しています。
従軍のために常に秀忠の軍勢より先行し、秀忠がその日の宿陣に到着するたびに挨拶して、是が非でも従軍させてもらえ、とはなんともモーレツな命令で、それほどまでしても忠興は家康に対し二心の無い事を証明したかったのでしょう。
それは、来るべき家康政権への絶対忠誠の表明だったのか、と言うと、ちょっと違うような気がします。忠興は徳川の世になっても羽柴姓を用いたりしており、盲目的な追従はしていません。
彼は、あくまで自分の目標達成のために家康を担いで利用しようとしていただけで、御神輿の家康に逃げられないためにしゃかりきになっていたのでしょう。
そして、その目的とは、石田三成ら吏僚派を排除し敵対する大名の領地を獲得して朝鮮出陣での戦費を償還する事だった筈です。
