仏教伝来と古墳時代の終焉。はざまに位置する二基の重要古墳
千葉県の印旛沼を望む下総台地に6世紀前半から7世紀前半の約1世紀の間に築造された龍角寺古墳群(りゅうかくじこふんぐん)がある。115基もの古墳の中で、最後の前方後円墳といわれる浅間山(せんげんやま)古墳を発掘調査した、千葉県立房総のむら風土記の丘資料館 主任上席研究員の白井久美子さんにお話を伺った。
当時の総国(ふさのくに/千葉県を中心とする古代のクニ)には、11もの国造(くにのみやつこ/各地を治める地方官)がいて、それぞれの地域が独自の政策を取りつつ、中央の有力な豪族と結びついて、群雄割拠の状態だったという。その中の「印波」(いんば)という地域で台頭した一大勢力が、龍角寺古墳群を形成した一族だった。
浅間山古墳は鬱蒼とした木々に囲まれて墳丘の形は把握しにくい。白井さんたちの調査チームは石室がなかなか見つからず苦戦していた。調査期限まであと3日という時に、ついに前室と後室を持つ横穴式石室が見つかった。そこからは怒涛の展開で、ヤマトとの、さらには仏教とも縁深い副葬品が次々と発見されたのだ。
「最も注目したいのは金銅製と銀製の冠飾(かんむりかざり)が見つかったことですね。それぞれに忍冬唐草文(にんとうからくさもん)という透彫(すかしぼり)の文様が施されていますが、モチーフといい、透彫りの技術といい、飛鳥仏の宝冠に見られるものです。仏教美術の影響を色濃く受けていて、この被葬者と飛鳥時代のヤマト王権との結びつきの強さが見て取れます」(白井さん)
さらに、同古墳からは金銅製の毛彫(けぼり/繊細な線彫り)文をもつ馬具(ばぐ)が見つかっている。特に2枚の薄板状杏葉(馬につける装飾)は、非常に細密で美しい毛彫りが施されている。毛彫りの技術は飛鳥寺や法隆寺本尊の造像(ぞうぞう)で知られる鞍作止利(くらつくりのとり)に代表される「止利派」が極めた技術とされ、これらの馬具の製作には、飛鳥の仏教美術の担い手が関わった可能性が非常に高いという。
浅間山古墳から北へ、600mほどのところに古代寺院の龍角寺跡がある。今は、塔と金堂の基壇(きだん)、礎石だけが残る静かな場所だ。ここで見つかった創建当時の軒丸瓦の単弁蓮華文(たんべんれんげもん)という文様は、大和山田寺の軒丸瓦と同じものであり、さらに本尊の薬師如来坐像の仏頭は、全国的にも大変希少な白鳳仏で重要文化財にもなっている。瓦や仏像の存在から、この寺を建立した人物が当時の中央(ヤマト)との深いパイプを持っていたことが容易に想像できる。
古代寺院・龍角寺の建立と巨大方墳出現のナゾ
では一体、誰がこの龍角寺を建立したのだろうか?白井さんは、浅間山古墳の20~30年ほどのちに現れた大方墳(だいほうふん)、岩屋古墳の被葬者を第一候補と考えている。
この古墳は墳形が残る方墳として我が国最大の大きさを誇るが、前方後円墳ではなく大型の方墳を築造(ちくぞう)するという流れは、仏教を導入した蘇我馬子の墓といわれる石舞台古墳とまさに同じ。いち早く中央の流行(考え)を取り入れたこの岩屋古墳の主は、墓としての古墳を築造しながら、かつ一族の菩提寺(ぼだいじ)ともいえる寺院を建立したことになる。まさしく、馬子が石舞台古墳を築造しつつ、飛鳥寺を建立したことと同じではないか。
「二基の古墳の被葬者は直系関係にあるといってもいいでしょう。先代の浅間山の被葬者の時代に板葺きの簡易な寺院を建立していた可能性もあり、それを次代の当主が瓦葺屋根の立派な寺院として完成させた。二代にわたる悲願が達成されたことになりますね」(白井さん)
この頃、大陸では隋と唐という大帝国が成立した。国際舞台に乗り遅れないために、ヤマト王権は遣隋使と遣唐使を派遣し、それまでの八百万の神に祈るという日本独自の宗教から、仏教を精神的な支柱とし、人心(じんしん)の一新を図ろうというのが当時のヤマト王権の政策の柱になっていったと白井さんは考える。
「仏教とともに経典を読む識字力、寺院を建立する土木技術、馬具や寺院装飾などの金工品製作技術など、革新的な文化や技術が流入してきました。さらにヤマト王権との政治的な結びつきが副産物としてついてくるとなれば、仏教を取り入れることは地方の豪族にとっても大きなメリットになったはずです。印波のクニは、ほかの東国のクニグニと同様、東北平定に睨みを効かせる地域として、ヤマト王権が重く見ており、警戒しながらも丁重に扱ったのでしょう。飛鳥から伝来したさまざまな副葬品の存在がそれを色濃く物語っていますね」(白井さん)
この後、ヤマト王権との繋がりを象徴するモニュメント、かつ、ステイタスでもあった前方後円墳は築造されなくなり、代わりに新たなステイタスシンボルとして全国に寺院が建立されていく。仏教伝来は宗教観だけでなく社会、経済、文化面で人々の価値観を大きく変えたのだ。
見上げるほどの、ピラミッドのようにそびえる岩屋古墳の墳頂に登ってみる。遠くに印旛沼を望む素晴らしい眺望を前に、ダイナミックな時代の変革期をたくましく乗り切り、生き切った、この一族の壮大な夢がこの地を駆け抜けたことを感じる。
「この地はつわものどもの夢のあとといえるでしょう」と白井さん。彼らの思いを映し出す龍角寺古墳群は、まさに印波の一族の夢が駆け抜けた場所なのだろう。
\今回のナビゲーター/
千葉県立房総のむら風土記の丘資料館主任上席研究員
白井久美子さん
早稲田大学第一文学部史学科卒業後、千葉大学大学院社会文化科学研究科後期課程修了、学位取得(文学)。千葉県文化財センター等に勤務。早稲田大学文学部・学習院大学文学部非常勤講師を歴任。著書に『古墳時代の実像』(共著・吉川弘文館)など。