次の話はいつの時代のものかはっきりしない。おそらく大正から昭和の初め頃ではないかと思われる。
舞台は信州の山の中の旅館。観光旅館などではなく、行商人などが泊まる粗末な宿であろう。
ある吹雪の晩、夜更けに宿の戸を叩く者があった。
宿のおかみが戸を開けてみると、中年の男が雪まみれになって立っていた。
男が「雪で道に迷ってしまったので泊めてほしい」と言うので、おかみは泊めてやろうとしたのだが、気づくと奥の部屋から出てきていたおかみの子が、母の袖を引いて声を上げて泣き出してしまった。
おかみは息子をなだめて泣きやませようとしたが、その子は男を指さして「恐い恐い」と言って泣きじゃくる一方だった。そのうち婆さまも出てきたが孫の様子を見るなり、こう言った。
「この泣き方は尋常のことではない。気の毒だが、お断わりしよう」
そこでおかみが男に「今日はお泊めすることができません」と伝えると、彼は文句も言わずに去っていった。
翌朝、旅館に刑事が訪ねてきた。
刑事は男の写真を見せ「この男を見かけなかったか」と言った。そこでおかみは昨夜の出来事を話し、その男が何かしたのかとたずねた。すると刑事は、男は麓の町で女を刺し殺したのだと答えた。
刑事が帰った後、おかみは息子に「どうして昨夜は旅の男の人を見て泣いたんだい?」と聞いた。
子どもはまた泣きそうな顔になって、こう言った。
「だって…おじさんの肩に…血まみれの女の人がおぶさって笑っていたんだもの」
今でもこの話は家庭内の出来事に変容して語り継がれている。
とある街の郊外に住む夫婦。
二人の間には幼い男の子があったが、夫婦仲はとても悪く、毎日のようにケンカをし、暴力沙汰になることも少なくなかった。
ある時、夫はついに妻を殺してしまった。彼は妻の死体を車に載せて山奥に捨ててくると、息子には「お母さんは長い旅に出た」と言っておいた。息子は変な顔をして父を見返していたが、なにも言わなかった。
その日から息子は時折、父親のことをじっと見つめるようになった。あまりに熱心に見つめてくるので男も気になって、「どうしてそんなにお父さんのことを見るんだい?」とたずねてみた。
すると息子は不思議そうな顔で、こう言ったのだった。
「なんでお母さんのことをずっとおんぶしているの?」
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