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古(いにしえ)の岸和田を辿る|地名の由来となった「岸辺の和田氏」の城跡

岸和田古城の跡地はいま

 天正12(1584)年に豊臣秀吉配下の中村一氏らが雑賀・根来などの紀伊勢の攻撃を受けたことで知られる岸和田城は、16世紀の前半に現在地に築かれたと考えられていますが、それ以前、岸和田にはもうひとつの城が存在していました。「岸和田古城」と呼ばれる丘城で、岸和田城とは南海電鉄本線の線路を挟んでちょうど東の反対側にあたります。

 明治期の古地図を見てみると、この一帯は葛城山系の高所から大阪湾に向かって斜面が下りきる手前の田畑に囲まれた町場となっています。かつての城跡と伝わる一角は現在次の写真のような状況。

「岸和田古城」の跡地

 集合住宅を基準として、奥と右方が高いのが写真からも分かると思います。傾斜地ですね。むかしは松が生えている程度だったところが、今は奇麗に整地されてこんな景色に。
 この高まりの一帯からは濠や土塁が発見され高まりを1キロ近く上った岸城中学校のあたりまでが城の敷地だったと推定されるということです。城は西の出丸・本丸・二の丸(・三の丸?)が海側から山側へ東西に連なる構造で、最も西頼のところに堰(土塁)を築けば、段々畑の水が溜まってダムの様に城周りの水田を水堀と化すことができたと伝えられます。その城主は和田氏。

 大阪湾を望む岸辺を和田氏が支配したところから、「岸の和田」転じて岸和田の地名になったといいます。その和田氏も岸和田古城とともに姿を消し、城跡もすっかり面影を失ってゆっくりと眠っています。

 おまけに、この岸和田古城主・和田氏ゆかりの城跡をもうひとつ。
 こちらは家臣の沼氏の館(城)跡です。

沼氏の城跡、岸和田天神宮

 城跡は岸和田天神宮となっています。血なまぐさい戦国時代のお城跡とは思えない清らかさで鎮まっておられるのですが、昔の様子が「沼天神」という別称で残っているのが興味深いところ。

 現代においてこの境内が戦国の鬨の声のような男達の叫びに包まれるのは、秋のだんじり祭の宮入りのときですね。

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橋場 日月 はしば あきら 大阪府出身。古文書などの史料を駆使した独自のアプローチで、新たな史観を浮き彫りにする研究家兼作家。主な著作に『新説桶狭間合戦』(学研)、『地形で読み解く「真田三代」最強の秘密』(朝日新書)、『大判ビジュアル図解 大迫力!写真と絵でわかる日本史』(西東社)など。

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